魔魚狩り・続き

筆者と、「フライの雑誌」編集発行人だった中沢孝氏との対談に、釣りは「やせがまん」とあった。
なるほど、そうかもしれないな。
宮台が若い奴が「つまらない」というのでいろんなことに逃避したり、物事からそれていったりするなんてことを朝日新聞に書いていてけっこう得心した。元々ブルセラ的なものを擁護していた彼が、どうやらそれは違っていたようだと自己批判していた感じもあっていよいよ気に入っていたが、「つまらない」ことに耐えられないだけならいいんだけど、それが「楽しませてもらう」ことの裏返しになっているように思う。自ら「つまらなさ」を転換していく術を知らない。
お台場にいったらとりわけそう思えてきた。あっという間に色褪せていくああした場所に、今世代が持っている空気を感じてしまったのだ。
同時に、魔魚狩りで指摘される奇妙な心情もある。「子ども」というキーワードをすべての免罪符にしてしまう。のさばらせるな。「子ども」がかけがえのないものだとぬかす奴こそ、「子ども」という聖域を作っているんじゃないのか。「子ども」を人質にとられているから学校に口を出せないというPTAが「子ども」をカードに学校を突き上げる光景もないわけではない。
ブラックバスの問題を考えるとき、「子ども」をだしにして感傷的な議論にするんじゃない。バスがいようがいまいが、自然体験なんてどこでも可能なんだ。そんなことを考えられない連中こそどうかしている。「子ども」を人質に強請っているのはそんな連中だぞ。