英語教育

yamanoutaさんにコメントいただいて自分なりに答えていたが、ちょうど空気があっているのか、苅谷剛彦朝日新聞の書評で同じテーマを扱っている。

英語教育はなぜ間違うのか (ちくま新書)

英語教育はなぜ間違うのか (ちくま新書)

苅谷は、本書の警告として「間違いを導く常識」いくつかを挙げて整理していて、いちいち納得できる。この警告は、教育に携わるものとしてまったく当たり前で、一般市民感情からは離れているかもしれない。

  1. 外国語の中でも英語を特別視し、国際理解教育と結び付ける見方
  2. バイリンガルの頭の中には2つの別々の言語能力があるという見方
  3. 外国語の学習には早期教育が有効だから小学校にも英語を取り入れるべしという見方。
  4. ネイティブスピーカーによる英語教育を信奉する見方

と並べて、こう述べる。


日本語であれ、英語であれ、それらに共通する深層の「基底能力」が言語能力の土台である。それは、どんな言語の使用もコントロールする力のことだ。英語力も、この基底能力の高さによる。これが著者の言語能力観である。だから、基底能力を高めるためには、まずは豊かな日本語力が必要となる。書き言葉を解して、直接触れることのできない世界を知る「間接経験」を豊かにしておくことで、基底能力も高まるという。
として、苅谷自身は、「この警句は、英語に限らず、現在の日本の教育一般に当てはまる」としている。
ここでいう基底能力については各教科のなかで、まさに基底に置かれた形ではっきりと形を示すことなく現実に教育活動にあったものである。どんなにルーズな教育者でも、こと教育者であるという事実だけで、子どもたち、学ぶものにそう認識されているだけで、基底能力の育成機能を果たしていた。
それをはっきりと教育の一課程として編成したのが「総合的な学習の時間」であった。それは、ボクのコラム「生き方のOS=総合的な学習の時間」に書いたとおりだ。それは実のところ教科教育の敗退とも言うべき状況で、教科教育がそうした基底教育に成り得なくなっていることへの対応だった。英語教育の一般的な状況はまさにそうしたものが進行しつつある空気を描く格好の見本だろう。
少しだけ付け加えた言い方をしておく。「直接触れることのできない世界を知る『間接経験』を豊かにしておくこと」とあると、すぐに読書をしたり、直接「体験」を軽視したりする誤解が生まれる。豊かな間接経験は、体験的なものと積み上げられた経験から止揚して生じる想像力を源泉し、基盤としている。新田次郎が描いた山巓の風を味わうには、風に向き合った体験を欠くことはできない。ただし、それが玄関を開けたときに吹き込むものであっても、剱岳の山頂を想起できるほど、ボクらは強靱な経験を構成する想像力をもっている生き物なのだ。