卒業式

小学校の卒業式には何度も出席したが、実はそんなに悲しくない。正直、小学校の場合には「別れ」なんぞないのだ。ただ、6年もいたので、環境の変化に少々戸惑っているし、もしかすると、蜜月の終わりを悲しんでいるのかということはある。親にしてみればそれはいっぱいだろう。節目である。しかしながら、教師がいっぱいいっぱいになるのは、ボクが非道な人間なのか、どうにも不思議なのだ。
死はいつ訪れるかわからない。そのときのことを心に持ちながら、日々を大切に過ごす。メメント・モリである。卒業なんてのもいつか訪れることには違いない。しかし、それはほぼ決まっているのだし、学校は卒業を前提に学ぶ場所である。
ある研修会のコーディネーターをしたときに、パネリストに少し変わったつっこみをした。
自然体験活動で5泊くらいをいっしょに過ごした子どもたちと支援スタッフがみんな「別れ」を悲しんで泣いていたという。よくわかる光景である。卒業式でもそうだけどやけに説得力がある。「悲しい」から泣いているのか。さて、そんなことなどあんまり聞いたことがないぞ。
で、優秀な方だったので、聞いてみた。「なんで泣いているんですかね」
参加者も教育関係者が多かったのだが、ボクがなんでそんなことを聞くのかわかっていないようだった。しかし、パネリストは決然と答えた。やっぱり、すごい人だ。躊躇なく答えた。内容はそうたいしたものではなかった(笑)が、即答できるところがこの人のすごさなのだ。そうした問いかけが、もともとその方にあったわけで、その問いかけをふまえたうえで、活動を支援しているってことなのだ、大事なのは。
小学校の卒業式の何が「悲しい」なんて話していたら、高校の先生をしていた人に「あなたは、高校の教師にはなれない」と言われたので、さっそく切り返した。高校の卒業式と小学校の卒業とを同じ「卒業」と見ては困る。もし、同じに見ているのなら高校の教師としておかしかろう。高校の卒業は特別な意味がもっともっとたくさんある。
でもね、よく考えてね。ボクは小学校の卒業式の「別れ」とか「悲しい」が不思議だと言っているわけで、「泣ける」わけではないと言っているのではない。「泣ける」のならよく理解できるよ。
冷静すぎるのかなと思うこともないわけではない。感情を示すのは好きだが、何でも「感動した」とか、「素晴らしい」で片づけて盛り上がるのは嫌いだ。