分校を舞台に

ちゅらさんの人が先生役をやっていて、分校の話らしい。こういうテレビドラマは、多くの人の「学校らしきもの」の記憶をうまく使っていて、今回は何か分校が廃校になるとかなんとかいう話。分校は素晴らしいところだから遺したいという話で、いつものようにいろいろ動きがある。そんな少々ステレオタイプのストーリー。
分校じゃなくたって、どの学校も素晴らしいところなので、存続云々は教育政策や財政負担などの問題になる。分校などがもつ「教育の原点らしさ」に因る感傷やそうした情緒的な評価で存続がどうこうなるわけではない。が、学校には感傷的な匂いが似合うらしく、そんな展開がよく繰り広げられる。
分校のような形を、「教育の原点らしさ」に導くのは、「二十四の瞳」なんかが根底にあるのか。とすれば、それはまさしく集団的なトラウマである。もし、その命題が真実なら分校みたいな規模のものをじゃんじゃん作ればいい。しかし、そうはならない。とすれば、人と人の関係がより際立ってわかりやすい形で見えているのが分校と言えるかもしれない。そうだとすれば、複雑さが希薄な分だけ、社会生活の学習という学校の機能的側面から見れば、それは少々問題があることになる。
また、かつてのような交通手段が限られていた時代と違って、バスのような交通手段を講じることは難しくない。子どもは歩くものだとする言い方もまた感傷に過ぎないことはことばを継ぎ足す以前の問題である。確かに、学校の行き帰りはおもしろかった。学校に行ってしまうことより、学校に行くまでが楽しかったのも事実だが、それは、議論の中心におけない。学校が生んだ副次的な要素だからだ。いや、学校が仮にその通学の道草のためにあるのだとすれば別だが、少なくともそのような認識は例外だろう。
そうした状況を鑑みても、分校という限定的な学校の形を保存するのかどうか、そういう判断が必要になる。そこには、「素晴らしい場所」であるかどうかの要素はない。学校はいずこも「素晴らしい場所」でなくてはならないし、「素晴らしい場所」でありえるのだ。
そうしたことを抜きに考えても、何だかリアリティが薄いのは、例えば、学校の存続について校長会が開かれるなどという件である。それは違うだろう。学校の設置については教育委員会が開かれるわけで、校長は学校管理者ではあるが、設置者ではない。校長の判断で学校がなくなるようなそんな展開は現実的ではない。
ま、そんなことは、ドラマとしてはどうでもいいんだけどね。
大きな学校にできて、小さな学校にできないことはけっこうあるが、小さな学校にしかできないことは少ない。一国の経済活動はマクロ的に見たときに、例えば、財政政策やマネーサプライのようなものでその動きを見つめることが可能だが、ミクロ的に見ると、個々の買い物、例えば、うちの今晩の夕食のカチャトーラにパプリカを使うか、ピーマンを使うかの営為で示されている。後者の方が実感があるだけのことで、結果ピーマンが購入されて、ボクが食べたものことなどは、なるほど、分校の教育活動のように「原点らしさ」がある。
それだけのこと。