ゆとり教育

今朝の朝日新聞の視点ウィークエンドで教育改革について下田教育研究所長の下田安信さんが「ゆとり教育」について書いている。ゆとり擁護とか、ゆとり非難ではなく、正しくゆとり批判を行っていて興味深い。
まず、ゆとり教育がむしろ歪んでいた知識偏重の価値観に支配された教育に対する反省から生まれたことを示し、ようやく、生まれた「ゆとり教育」が大学入試改革を伴わないがゆえに、「事実上破滅した」という。
そのうえで、だれもがそう感じているように文部科学大臣の復古的な強弁を指弾。そして、

学力とは、知識の量でもテスト技能でもない。ことに応じて辞典辞書を駆使する能力、思考力、想像力など「生きる力」である。思うに、それは確かなる一能のことである。
と記す。
「生きる力」がとかく形成的な力として捉えられることも、ボクは少々不満であった。ここでも、「駆使する能力」とあって、その部分はもう少し検証が必要だが、「想像力」を含んでいることは実に示唆深い。ここを外しては、学力とか、知性とか、そういう議論にはならない。
知識偏重の反対に、体験偏重もある。「知っていることはわかることの半分も重要ではない」レイチェル・カーソンはいったが、知識は想像力の源泉となる。行ったことがあるわけのない月の表面がどうなってるかをボクらはかなり容易に想像できる。しかし、そうした知識と想像力を結び付けるものがある。そこが、むしろ「生きる力」の中心でなくてはならない。
下田さんは、続けてこう書き、こう結ぶ。

ようやく到達した教育の本道、ゆとり教育からの逸脱は国民的損失である。識者各位の英知が朝令暮改の過ちを犯さないことを祈ること切なるものがある。
いっしょに祈りたい。