愛知万博

ラジオのコマーシャルで、「1970年の大阪以来の国際博覧会、子どもたちの未来の思い出に」なんて言っている。大阪万博にも結局乗り遅れ、筑波も、海洋博もむろん知らない(中曽根美樹の失敗は少し知っている)ボクには、いよいよどうだっていいものに思えて、縁遠いよりも、むしろ、胡散臭く疎ましいものに感じてさえいる。
科学とか、進歩といったことばで少年期を過ごしたボクらが、科学万能の未来を脳天気に信じることなく、そうしたものへの礼賛から距離を置くのは、ガッチャマンやライダー、ウルトラセブンキカイダーが、フィジカルな物語であるはずの星くんやジョーと同じように抱え込んでしまった苦悩と煩悶を共感的に受容してしまった過去があるからだろう。社会は揺れ、やがて、過去を歪んだ形で精算した。そんな歴史の転換点にあったのだろう。おそらく、そうしたヒーローは、長嶋の落日と呼応して、ボクら世代の不安をあおり、万能の未来のリアリティをはぎ取っていった。最後のとどめは、愛の名の下に戦争をしかけるヤマトである。太平洋戦争からボクらは何も成長していなかった。軍歌のごときマーチに、こともあろうに感動してしまった自分を責めながら、今、再び科学によってそれを払拭できる可能性の無力を感じている。
そんななかで、愛知万博に関して、朝日新聞2005.7.14付け朝刊12版▲で、「漫画で解く 愛地球博」とする記事があり、切通理作清原なつのが書いている。
切通理作は「ナウシカ」批評で知られ、清原なつのは、伝説の「花岡さん」シリーズの作者である。宮森坂に簑島さんのかつらの気配を探しに行ったことさえある。
まず、清原なつのは、「進歩だと思っているのは、効率を追求しただけの画一化だったりして」とあっさり書いて、そんなものを見せた挙げ句、結局、サツキとメイの家的なものに気付かせる「大反省万博」だと言っている。
切通理作にいたっては、万博のなかで技術が見せる仮想が想像を超えきれない限界を指摘し、サツキとメイの家の「「さっきまでここに居た」という気配は、たくみに再構成された立体映像よりも、実はバーチャルではないか。」と書く。押井守が出展していたのはこの記事まで知らなかったのだが、動かない球体関節人形に、この博覧会に突きつけられた現実を見るように思える。
記事が「漫画で解く」と書いているのは、いささか、最近の朝日を思えて笑える。どうも間抜けなのだ。漫画家がこの未来現実をそう簡単に受け入れるほど、想像力に欠ける人々だと思われているのか、この2人だけの記事に、ロボットの紹介のコラムを合わせている。そういったもので笑わそうとする意図があるとも思えないので、漫画家=空想家みたいに思われているのか。(切通理作はマンガは描かないが)
未来を実現するのは技術や科学ではない。意志である。科学は意志を表現する道具に過ぎない。技術は表現のための手法でしかない。そのことをわからないで、科学教育とか、理科数学教育と抜かしている大人社会が、きっと朝日新聞の記者よりもわかっていないのだろう。