公民館の事業で

ある公民館の仕事のお手伝いをさせていただいている。直接手をかけるのではなく、少しアドバイザーの立場になっている。
社会教育になると、日頃、子どもたちと接していない分だけ、ふるまいが過剰になって子どもたちのためにと称して何でも大人でしつらえてやらせてしまうことが少なくない。そういうこともあって、ある事業では、とにかく、すぐに手を出すな、可能な限り待って、とにかく考えさせる時間をやるんだなんてポリシーを鮮明にしてきた。
ちょっと勘違いする人もあって、見ているだけで見守れない人もあって、それもまた教育の難しさを感じさせる。
その中で話題になったのが、では、子どもに何か聞かれたらどうするかって話になった。質問されれば答えるのがルールだし、つながりを求められているのだから応じるべきである。しかし、応じ方にはやはり所作が必要だ。
例えば、こういう質問。
「ねえ、この大根どうするんですか?」
多くの人は、質問の内容を読んで、「その大根はね」と何をどうするのかを答える。しかし、そんなものは教育にならない。
子どもがそういう質問をしてくるときには、大方、子どもなりの選択とどうするのかをある程度絞り込んでいる。大根が何かを知らないときにはどうしようもないが、大根をどう扱えばいいかを聞いているのだから、大根がどんなものか、その大根をAするのか、Bするのかくらいは考えている。つまり、内容を教示して欲しいのではない。ここでは、判断の確認を求めている場合が少なくないのだ。
「あなたはどうすればいいと思う」
そう聞き返すと、彼なりの答えを、おそらくは返してくるだろう。それに対して、「ああ、そうするといいね」「こうやってごらん」などと判断と不足している部分を補ってやるといい。あるいは、誰かアドバイスが的確にできるものを紹介するのもいいだろう。
内容を一生懸命返して、それで「教えた」気になっている。たったそれだけのことなんだけど、これだけでずいぶんと違うんだけど、そういう話を地域の人々に話せる機会などはそうそう滅多にない。ああいう会合も大切なものだな。決して秘技ではないが、コロンブスの卵なのだ。みんなが知っているのに気づかない。そこらをいじるのも、教育の支援的な機能の一部。