モノフォニック

総選挙も最終盤。情勢は、あの党首の思惑通りに展開している。この日記でもときどき書いてきたが、世の中が単純化しているのではないかと最近よく感じる。
最初の予感は、学力論争だった。
「小数点が3」その見出しが踊ったのは数年前。違うんだって、といくら叫んでも、「小数点は3.14」だという、これもまた錯誤に満ちた議論が活性化したままになった。学力の深く豊かな艶が完全に削ぎ落とされ、そう、あの萩焼のように移ろいながら次第に表面から深いところからにじみ出してくるような輝きから、ペンキで塗りたくっただけのわかりやすい赤だの、青だの、そんな色合いになった。言えない色を強引に言ってしまおうとするとそんなことになる。それ以降、学力とは、漢字の書き取りや計算の能力、暗記力、そういったものに矮小化された。
次の予感は、K−1で叫ぶ藤原紀香であった。
K−1そのものがわかりやすさで売っていることはよくわかる。プロレス的結末の複雑多岐で背景を抱え込んでしまう運命的な展開に、初見で批評を与えることの難しさはプロレスマスコミの難解さにもつながる。しかし、それは深さであって、混迷ではない。K−1にもそのような明暗が、ある。アーネスト・ホーストの足が顔面をヒットしないことの黄昏。不器用に前進し、打ちのめされるだけの曙。そうしたもののうちにボクらはブンガクを感じることもないわけではない。しかし、リングサイドで叫ぶ藤原は「すごい」「すばらしい」「感動した」とどこかの党首と同じことばを連続して敗者には「がんばりましたね」「見せてくれました」とえげつなく広がりのないことばを容赦なくたたきつけている。これが否定されるならともかく、K−1の伝道師とでも言わんばかりに露出する。
少し離れるが、昨晩の柔道世界選手権でも同じ有様。K−1風に作っているCXもCXだが、彼女の扇情的な無機質語に辟易して、柔道の凄味を感じずに読後感を汚された人も少なくあるまいが、少数派なのか。
さらに、予感は、「世界の中心で愛を叫ぶ」である。こんな読み物がどうしてヒットするんだろう。最近はベストセラーが加速するように売れることがある。乗り遅れまいと購読に走る人がいるらしい。情けないというよりも、そこにブンガク的な渇望は乏しい。読むのは勝手だが、ベストセラーは売れている本であって、その評価とは連動しない。音楽でも同様の現象が起きているとのことで、以前、テレビの討論番組で「ベストテンに入る曲はいい曲か」というテーマで1時間弱持っていた。その中で中学生が「みんなに支持される曲だからいい曲ということじゃないか」と言っている。多数決優先民主主義の成果なのか。前述の本に感動しないのは人としておかしいとまで話す人がいる。眞鍋かをりが自身のブログで、映画化された「セカチュー」の一場面を真似ていた。そうしたパロディには事欠かないくらいの価値を認めるが、さて、ブンガクとしてどれほどのものかとなると、それはもっと多様な批評に耐えるものである必要を持つのではないか。
思い起こせば、もっとあるんだろう。
海外にわたったイチロー。彼の打席だけを放送して、「イチロー選手は4打数2安打で打率を3割5分に上げました」とのコメントだけで済ませる。そこには野球が、いや、イチローが憧れたベースボールがない。昨日、ヤンキース松井が3番に座った。ヤンキース最強の場所である。残念ながら2安打も報われなかったが、強烈な出来事である。かのルースと同じ場所に松井がいるのだ。
勝ち負けを付けないと、全員一斉にゴールする運動会。テールエンドの走者への万雷の拍手。アルミ缶を収拾するために、牛乳パックを再回収するために、せっせとアルミ缶と牛乳パックを買いまくる。テレビのキャスターの一言で売り切れるココア。公開されるとどこでやっているかわからないくらいにニュースにならない映画。なだれ込むような消費と飽きっぽさが市場を支配している。
こうした情況にボクは「単純化」という単純なことばを使ってきた。しかし、どうもそれでは情況をうまく包み込めないように思えて、ぼんやりと考え込んでいた。政治をポリティックスという。ポリはポリエチレンのポリと同じでいくつもの複層的重層的多数的なものが連なったことを指す。音楽の和音など複数の音をポリフォニックという。複声とでもいわばいいのか。最初の頃のシンセサイザーはポリフォニックができなかった。対応することばは、モノフォニックである。単音のことである。どうやら、このことばの響きが今一番しっくりきている。
テレビでは明日に控えた投票への最後のとどめのようにライオンを標榜する党首がモノフォニックなことばを吐きまくっている。受容体そのものがモノフォニック化している人々には、ストレートに響く。いや、響かずに届くのだろう。
文学的情動。教育に失われたものは、そんなものかもしれない。教育は世界を作る。時間は取り戻せない。