義務教育費国庫負担

義務教育費国庫負担といっても多くの人は実はピンときていないだろう。
義務教育にかかる教員の給与の半分は、国が面倒をみましょうということで補助金都道府県に支払われていた。これは、ナショナルミニマムとしての教育の質を落とさないための措置で、教員定数法に基づいた教員の分は国が面倒をみるよということであった。このうち、中学校教員分8500億円を補助金としては廃止して、交付金措置に換えるというのが今回の議論である。交付金になると40の都道府県が現在の金額を下回るとの試算がある。しかし、補助金でなくなることからいわゆるひも付きとして使い道を限定されずに都道府県の裁量を増やして、定数法を超えたり、地域によって教員の数を加減するなど弾力的な配置が可能となり、いわゆる、地方文権としての裁量権、決定権を持つことができるという考え方である。
ここにはむろん、議論がある。国が義務教育を保障するという基本的な性質を後退させかねない。地域間格差が生じる。国の統制を離れてもっと個性的な教育が可能になる。いずれにしても、国の教育政策の根幹にかかる事件には違いない。
ここでもう一つの誤解がある。ちゃんと新聞を読んでいればわかるんだが、この廃止の方針は小泉政権の提案ではない。むろん、権益を失いたくない文部科学省の考えでもない。全国知事会議など地方6団体の提案である。引き金になっているのは、小泉の政策ではあるが。知事連中にしてみれば、教育を自前でどうこうできる権限が欲しいというくらいのつもりなのだろう。
さて、この件に関して、今朝の朝日新聞苅谷剛彦が「私の視点」に投稿している。中央教育審議会のことをもとに描いている。多くの教育を論ずる人の掛け違いを極めて単純に指摘していて、少し教育の現場、組織的なもの、行政的なものを知っているボクには卓見に思えた。

一般の印象とは異なり、財源を国が持つことが地方の教育を縛っているわけではない。地方委員も遵守を主張している教職員の定数法や学習指導要領などの縛りが強いのだ。

その通りである。その通り過ぎて何にもいいようがないが、これをわざわざ言わなくてはならないほどに、「一般の印象」が歪んでいる。
市町村立の教員の給与は誰が負担しているか、多くの人はご存じない。市町村立学校の教員の所属は、市町村教育委員会である。しかし、その給与は都道府県が負担していて、その半額を国庫で負担しているという枠組みである。ゆえに、市町村立の教員のことを県費負担教職員としている。今回の中教審ではこのことも議論の対象になっていて、所属と給与負担を一致させようとの考え方が出てきている。つまり、国からの交付金を市町村に配分して市町村でその給与を賄おうというのだ。その際、交付金充当される分はともかく、残りの負担を都道府県が保障するのか、市町村が負担するのかについては結論を出していない。きっと後ろだろうと思うけど。市町村の負担が大きくなるため、いくつかの市町村で共同で人事管理を行う案だけは提示されていた。
このことももちろんだが、さらに印象的なのは、次のことばで、苅谷剛彦がしっかりと教育の現場、つまり、教室をしっかりと見据えた希有な学者であることをよく示している。

しかも今回の地方案は、一般財源化と称して、都道府県を移譲先とするものであった。これもまた、教育の地方分権を進めない。市町村の教育を縛る規制や慣習の多くは、都道府県教育委員会と市町村との間にあるからだ。県の権限ばかり強めても、教育の地方分権にはならない。

市町村の学校現場から見えるのは、県や県の出先機関で、すでに文部科学省都道府県教育委員会では問題にすらなっていないことが旧泰然と保持されて権威のヒエラルキーとして機能している例は少なくない。教育をめぐる議論のなかで、非常に的確に現状とその分析、将来の方向性を語っているのはやはり文部科学省でありながら、その卓越した政策が全く教育の現場、教室に流れ込まないのは、都道府県教育委員会と市町村、市町村と学校の間にあるものが阻害しているからに違いない。
ある都道府県の知事が「地方集権」と言っていた。都道府県に権限を移譲してミニマムな中央集権を各地に作ろうという奇妙な考え方だが、市町村合併が進んで都道府県の姿が見えにくくなってきたことへの悪あがきでないことを祈ろう。
ところで、PTAの役員さんってこういうのを知っているのかな。よく都道府県知事に勝手なことを言っている人があって笑えるんだけど。どんな勝手なことかというと、自分の学校のグラウンドのところの溝が壊れていてよく水があふれるのだが何とかならないかって言うんだ(笑)