立川談志のテクニック

立川談志はとにかく子どもの頃の憧れ。好き勝手しゃべっているように思えてちゃんとつぼにはまってくる。のちに円生が好きになり、やがて、セロニアス・モンク志ん生が好きになった。落語好きにはわかるでしょ。
その談志が今円生が遺したような仕事をしようとしているらしい。おもしろい言い方をしていて、何でもその場に適当に合わせて話をこしらえちゃうようにして取り繕って芸にしてしまえる自身の芸を、「テクニック」といい、そういう「テクニック」は「才能」だと言い切っている。つうことは、余人が及ばない場所にある。
テクニックは技能技巧で、むしろ、そういうものこそ伝えられ、磨けるものと思われていて、そうじゃないどこかコアにあるものが才能で、攻殻機動隊で言えば、ゴーストのようなものが才能とでも呼ぶべきオリジナリティだと思われているが、テクニックがオリジナリティを持っているような言い方をしている。
久しぶりに考えさせられた。
テクニックはそれ自体要素として現れるのではない。総体として、表現の形式を経由して形を結ぶ。それ自体にオリジナリティがなければ、それは表現としてすら見逃されてしまう。
この人が古典をやるときには、ジャズを感じるよね。