子どもをきたえる

少し前に誘われて教育研究会というのに参加した。いささか場違いで、男性のなかでノーネクタイはボクだけだった。夏もそんなことがあって行ってみると、教員の世界にはクールビズとかってのは無いのかと思えるくらいにしっかりとネクタイ。保守的なのか、変化に付いていけないのか、表面上のことだから、ボクはボクでいいかと臆することなく過ごしてきた。
今回は、総合的な学習の時間の研究会で体験活動なんかのサポートもやっているの少々興味深く参加した。新しいエコスクールとかいうアーキテクチャーで太陽光発電風力発電を装備し、採光や断熱などを考えた作りなんだそうだ。その程度でエコスクールとは笑えるが、案の定、ビオトープもあった。
そのビオトープがらみで学校ってそういうところなんだなと思わせる部分があった。本筋じゃないけど、書いておこう。
ビオトープには決まったようにホタルの飼育が付いて回っている。もともと開校のときに3年生がビオトープという名前の水路を整備し始めて、いろいろな生き物を入れたんだそうな。今年になって5年生がホタルはきれいな水に住むというので、地下水を使っているうちのビオトープでもホタルでいっぱいにしようなんて言って、上級生を口説いて幼虫を放したらしい。いい話じゃないか。このあたりは田圃もあったみたいだし、市街地では珍しく地下水もいいところだからきっと以前にはホタルが飛び交うような場所だったんだろうな。もともと、宮本輝の「螢川」はこの近所の川のことなので、1学期に土地の人たちにいろんな聞き込みをしたらそんな話が出てきて、じゃあ、ボクらのビオトープとやらでもとなったのだと思って、うれしくなって聞いてみた。
「いえ、そんなことはありません。きれいな水に住むということから子どもたちがホタルを放そうと言いました」
何だ、外来魚駆除といっしょか。悪いと思ったら駆除して、いいと思ったら保護する。短絡的だな。授業のなかでは、インターネットのリアルタイム会議である有名な里山自然型動物園のスタッフに話を聞いていて、どうもホタルの幼虫がアメリカザリガニに食われていることがわかったらしく、どうやったらザリガニを減らせるかと聞くと、「1匹1匹駆除するしかないですね」との答えにさっそく駆除開始。それをどうするのかと思ったら、希望者の家で飼うという。先生は、「命は粗末にしていません」などと話していた。ブラックバスを悪者化してしまう素性はこんなところにあるんだな。
書きたいのはそっちじゃなかったのに長くなった。そうやって発言したら、みんな意外な展開に思えたのか、「理科の先生ですか」と何人にも聞かれた。ただのフィールドナビゲーターです(笑)
それにしても、こういうビオトープは少なくあるまい。それでは「池」である。いっそ、そんな風に言った方がよほどわかりやすい。呉羽少年自然の家では、住み着いてしまったアメリカザリガニを釣らせてくれる。保育園の子どもたちがきゃあきゃあ言いながら釣っている。ホタルの方が生命として、あるいは「美しい環境」の住民として優先権があるらしい。
さて、その研究会でしばしば聞かれたのが、「子どもたちがきたえられている」という発言だ。その学校の地元の地区の人がそんな言い方を頻繁にしていた。どんなことを聞いてもいろいろ答えてくれるし、司会進行もうまい。ノートや表現物もなかなか悪くない。そういうことを指して使うことばらしいが違和感だらけだった。「育っている」じゃいけないのかな。「きたえる」にはどうも追い込んでいくイメージがあって、精度や深度は上がるけど、多様性とか多義性から少し遠くなる印象を、ボク自身は持っている。また、「育つ」に含まれる主体が「きたえる」には少し逸れてしまうようにも思う。鍛造ってことばは鉄そのものではなく、叩く方に向けられたことば。
でも、そんな感じが学校を支配するようになったのかもしれないな。学校に深くかかわっていた7年前と同じようにことばを使い、同じように聞いているつもりだったが、実は既に根本的にずれてしまったものがあって、いわばことばのパラダイムを違えているようなら、学校や子ども、教育へのまなざしを転換する必要がある。しかし、そのまなざしをどのように用意すればいいのかがわからない。

蛍川・泥の河 (新潮文庫)

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