向山洋一の本を処分

向山洋一という人がいて、跳び箱はだれにでも跳ばせられるとして一世風靡した人で、ちょっとしたカリスマだった時期がある。若い先生からそこそこ年輩の先生までに人気のある向山洋一とその一派の教育的効果を検証しようと何冊かを読んだ。読んでみると、向山は自分の本は10冊読まないとわからないと書いていたので、10冊買って読んだ。10冊で1万円を超えてしまう。が、そうだと言うのだから読んだ。読んでみると、なるほど、わかった。10冊あるのだが、書いてあることは2冊分くらいで、繰り返して、しかも、巧みに分散しながら10冊分にしてあるため、2冊分だが、やはり、10冊読まないとわからない仕組みになっている。
この人とその一派はなかなか巧みな戦術を展開していて、よい実践レポートを「論文」と称して、そう科学誌ジャーナルの審査みたいな形をとって雑誌に掲載する。掲載されれば一定の評価を得たことになり、さらに、それは誰もが共有しうる財産だと言ってその価値を普遍的なものであるかのように見せる。先生たちにとってはそうかもしれないので、「見せかける」とは書かない。それで、ある程度掲載論文がたまるとそれを投稿者を並べて共著にして単行本にする。雑誌jへの掲載順ではなくある程度のテーマ的なまとまりを作るので、その後、真似をして、いや「追試」で検証実践するにはちょうどよい誂えにする。そこらも、科学ジャーナルとよく似てはいる。共著にするので、微々たるものかもしれないが、印税も入る。本を出した実績にもなる。親戚にも売るが、同僚にも売り、その可能性はあなたにもあると感じさせる。投稿、いや、論文作成のコツをうまくつかんでしまえばけっこうな採用率になるらしく、熱心に教材開発など論文のネタを日頃の実践で作り出す。そうすれば、毎日が楽しくクリエイティブになるので、教育実践も充実し、子どもたちも育ち、さらには保護者から「○○先生のやり方はおもしろいし、すばらしい。子どもも楽しいと言っている」と評判をいただき、ますます楽しくなり、教材研究も授業研究もするし、せっせと論文を書き、本を出せば出したで、ほかの共著者もずらっと並んでいるのだが、とりあえず自分の本なのでうれしくなる。こういう循環が広がり、さらにたくさんの教師がこれに参画することでムーブメントは広がっていった。
向山洋一はカリスマになり、彼の実践を他の人が書いたものが出てくるようにもなるし、本人も先に記したような2冊分を10冊にしながら本を出していく。10冊読まないとわからない仕組みなので、やっぱり10冊買うわけだ。買って、2冊分の啓示をいただく。それは、向山洋一のせいではなく、もともと実践から理念を絞り出すにはそうした記述の方法が面倒がなくていい。特に、強烈な思想を持っているならともかく、日々の取り組みの対処的なやり方から背景を描くようなやり方を先生方は「わかりやすい」とおっしゃる傾向もあり、あながち不当とは思えない。しかし、10冊必要というのはいささか面倒だが、もう1冊買ったら真理に行き当たるような気もしてつい買ってしまうのだろう。
今も、そうしたムーブメントのなかに浸っている人も少なくないらしい。あんまり見たことはないが、大きな書店の教育書のコーナーに行くと、「子どもにウケる朝の会の話」とか、「日本国憲法を憶えるための歌」CDなんかが並んでおり、先生方はこんなことを真剣に求めているのかと、異文化体験のごとく、いくつか手に取ってみるとなかなかいよいよ笑える。
それで、10冊は200円になった。有り難い。1冊20円である。10冊の廃本が近藤唯之の本1冊に変わった。