「素人そば」そば打ち教室

そろそろシーズンになった。火曜日に言われて今日、急遽、そば打ち教室。家庭の道具でできるそば打ち教室なんてのは、方々でやっているものではないので、それなりの需要がある。そば打ちなんて全然難しくないのに、職人芸を持ち込んでやけに小難しいものにしてしまっている現実があり、多くのそば打ち同好会はそうした職人芸をひとつの態度の目当てにおいていることで、多くの人がそば打ちを失敗した経験をもっている。そのうち、「うまくつながらない」などはどう考えても指導のミスなんだけど、そこを技術の尊さでエクスキューズしてしまうような尊大さがつきまとっている。ボクらはそれに嫌気が刺して、百円ショップで手に入りそうな道具立てでできるそば打ちの方法を考え、そして、実践してきた。この方向性を「素人そば」と呼んでいる。
詳しいことは、森のマヨヒガの蕎麦関係の記述で確認して欲しいが、ボクはそばをこんな風に分けてみた。

  1. 蕎麦屋の蕎麦
  2. おばちゃんそば
  3. 「おかあさんのカレーライス、おとうさんのチャーハン」そば(長い!)

最初は、もちろん職人芸である。いつも、同じように等質の価値を期待に応えて提供する責任がある。店の佇まい、客あしらいまで、蕎麦屋である。江戸前の趣味食としての蕎麦が一つの形で、ほかには伝統食から観光食、名物料理化したそばも一部は含んでいいだろう。
次は、各地にある土地の伝統をふまえたおばちゃんのそばである。地場産品のお店に隣接していたり、温泉場にあったりと、公営施設や地区施設でおばちゃんたちが交替でやっているようなお店。有名な新行の美郷なんかはこの部類で、ボク自身が日常食としての蕎麦について考え始めたのもこういうそば屋の存在からだ。名物料理としてふるまわれるそばの一部はこっちに近いものがある。
ここまでは、「お店」として成り立っているものなのだが、3番目は、家庭そば打ちである。お母さんのカレーライスはお店のとはずいぶん違うし、家によっても大きく異なる。うちの母は、ジャガイモ大きめ、薄切り豚肉、タマネギ、ニンジンたっぷりなのだが、妻は、チキン、ジャガイモ大きめ、その他である。どちらがうまいとか好みとかではなく、彼女らの味として成立し、物語を伴って、独特の郷愁に近い感情をもたらす。そばは基本的な日常食である。米の代替食との表現も時々見受けられるが、米が取れるのが普通と考える場所からの見下した言い方で、本来は、その土地の主食である。そのそばに様々な味わいがあって当然だろう。米と違ってどうしても造作が必要になる。そば切り、そばがき、水団などバリエーションがあればあるほど、変異も大きい。また、同様に、お父さんがときどき気まぐれに作るチャーハンにも似ている。本人の満足度が高く、「どや、うまいだろ」と強引な同意を促すあたりも、雰囲気の漂い方に近似点を見いだせる。
しかし、世間は、1,2が手打ちそばの対象で、しかも、3に到っては、1,2の序列として相対化されてしまっている。それは違うだろうと言いたい。
家庭で出汁からラーメンを作るものはなかろう。あれは、基本、お店の料理なのだ。それが家庭に侵入してきた。創作料理だからである。そばは違う。元々主要な穀物としてあり、そこにそば切りなどという新しい形式が取り込まれ一般化していった。ラーメンはお店に近づくが、そばは極めて独立性をもっているはずである。しかし、多くのそば同好会、そば教室、そば打ち体験は蕎麦屋を目指している。そこがおかしい。食の哲学を欠いた行いである。ましてや、そばの道具自慢のような同好会は、その人々がその価値の中で競い合うのはいいのだが、そばにエントリーする人には多くの場合どうでもいいことなのだ。
そこで、ボクらは、3を「素人そば」と呼んで、明確に方向性を持ってみたわけだ。今のところ、多くは成功している。今日は、そば切りに加えて、そばがき、そばかりんとうも作ってみた。何でもいいから、こういう食を切り口に家族の交流のきっかけをという文句まで付けておいた。男女共同参画何とかのサークルに招かれたのだ(笑)無理矢理、こじつけた感はあったが、意外にそうなのかなとも自分でしゃべって感心してしまった。参加者には、満足いただけただろうか。
年末には、ある小学校の研修会もお願いされている。食育の一環だそうで、呼んでくださる方も以前、この「素人そば」を体験されて少々考え方を変えたら自分のそばが作れるようになったという方である。校長先生だと伺った。ご自分のそばは刻々と変化し、楽しいと仰せられた。御意である。