桑田と金村

日本ハムの金村が降板のあと、個人成績を大事にしないのかといった監督批判をして、どうやら登録抹消らしい。昨日のこの試合を、テレビで観ていたが、個人記録がかかっているものの、妥当な降板に思えた。試合数は限られ、西武と同じように負けていると引き分け数の関係から確実に西武有利に働いている状況では早め早めに手を打つ選択はよく理解できる。結果的に事態はうまく働いてはくれなかった。金村の言葉は、チームが一丸になって戦っている姿に水を差すもので、そのことがすぐに金村自身のブログでの反省の弁につながったようだ。
しかし、プロ野球選手というのはもっとエゴイスティックな存在じゃないのだろうか。だれよりも光り輝き、だれよりも素晴らしい選手と思われ続けたいと考えているわけで、その意味で、チームのために犠牲になろうとは思っていない。チームのために犠牲になるという貢献のあり方は受け入れられるが、チームのために自分を潰すことをよしとするプロ野球選手というアスリートのあり方なんかあり得ないのだ。もし、そんなものがあるなら、そんな選手がいるなら、そんな選手がいるから、今、野球は面白くなくなっている。
さっき、ヤンキーズの松井に関してのだれかのコメントを読むと、WBCに出ないと言ってから松井を応援する気がなくなったなんて書いてあった。応援するしないは好き勝手の範疇だが、WBCを拒否するという選択がよく理解されていないのだと感じた。
松井秀喜は、世界一になりたいのであって、そのために、国別対抗戦というWBCというイベントの頂点に立ちたいと願っているわけではない。サッカーのワールドカップやオリンピックと勘違いしているような向きもあるが、WBCが野球世界一を決定しようという趣旨のものではなかったのは、多くの人が認識しているとおりだ。ゲームは悪くなかった。曲がりなりにも日本代表のユニフォームを背負ってその場所に立つことの意義や価値は少しも損なわれているわけではないが、松井はヤンキーズというチームで世界一の場所に、多くの人がその場所を世界一と考えているところに、そして、夢見てきた場所に立ちたいのだ。そういうエゴイスティックな姿を見て、ボクは松井を見直した。
こういうことだ。
ある山を目指している。その山は難攻不落。ちょっとやそっとでは、そして、力では到達できない。運も必要だ。しかし、運さえもつかみ取って何とかその山の頂点に向かいたいと思っている。あるパーティーで苦戦しながらも何回もその山に挑戦している。
関係ないけど思い出した。あるBBSで、山の遭難の記事を拾って、そんな山の中でパーティーなんかしているから遭難するんだと書き込んでいた人があった。あるいは、ネタかもしれないが。
話を戻す。
ところが、あるところで、これまで使えなかったあるルートがいくつかの工作機械の導入で利用できることになったほか、画期的な登坂用具の開発でどうやらうまく登れそうで、別のパーティーを組むからそこに参加しないかと誘われる。
あんまり、わかりやすくないな(笑)でも、こんな話だと思う。乗るのも、反るのも選択である。どっちがいい悪いの話ではない。
イチローは、最初の年以来、世界一を目指せない場所の戦いを続けている。ブルーウェーブと同じことになり始めている。イチローを称える最も大きい価値は、あれだけモチベーションを失いがちな環境で、よく切れずに戦っているという点だろう。イチローのエゴがまだまだ環境に勝っているのだ。
さて、金村なのだが、顰蹙を買ったのはタイミングが悪いからだ。それだけだ。プロ選手はまだまだやれた、まだやれると思い続けるものだと思いたい。ゆえに、桑田はジャイアンツを離れても現役を続けたいと願う。監督が近づいてきて不愉快でない選手などあるものか。野球をプレーするという誘惑は、人をロマンチストにエゴイストにする。金村がこだわっていたものを口にしたばかりだ。桑田もそうである。個のエゴイズムがチームとなって機能したとき、おもしろいゲームが見えてくる。
ただ、そんなこと口に出さなくていい。最近、ベンチにグラブを投げつける選手も少なくない。そんなことは、ベンチ裏でやればいい。マウンドを降りる姿にちゃんとことばは語られているのだから。意外に、それを選手が知らないか。マウンドで語れる上原は、成績にかかわりなくエースである。
プレーでことばを語れる選手は、確かに少なくなったかもしれないな。