そば打ちイベント

町の教育委員会から依頼されて、これで何年目くらいになるかな、6年か、7年目の生涯学習のイベントへのそば打ちでの参加。イベントへの参加は、その数年前で10年になったはず。最初の担当者はボクの先輩で、その方ももう鬼籍に入ってしまった。仲間もどんどん忙しくなって、今回は、ボクと若い仲間の2人。そば打ちの方はボク一人で賄う。
何年か前に、草の子の協力でいい方法を熟成してからは、教えるのも楽になった。これでなければという決まった方法の感じはなく、これなら何とかなるというやり方で、何よりも、専門の道具を使わずにやってしまうあたりに快適性がある。
どうもそば打ちというのは、道具が特殊で、他のいろんな料理は基本的には家庭の厨房用具でやるのだが、そばの場合に職人の道具を普通に使うという奇妙な現実がある。まるで、その道具でなければそばにならないかのような錯覚もあって、学校や公民館での教室でもそうした職人の道具で行われることも少なくない。そのため、こんなにたくさんの人が興味を持っているのに、思いの外普及しない情況もある。
何度も書くのだが、専門店のカレーライスもあればお母さんのカレーライスもあるわけで、ボクらの考えたやり方がお母さんのカレーライスにあたる「うちのそば」の形を作る助けになればいいのではないのかと思っている。
実際、使っている道具をうちの町でもけっこうそば打ちが盛んになった地区の人が見て「何だ、普通の包丁か」とのたまった。「うちの地区では、そば包丁を持っている人がけっこういるよ。だけど、ブームは去ったけど」と話す。ボクが作りたいのはブームではない。この土地にあった、そばを食す文化をちょっとだけ復活させたいのだ。このやり方でそば打ちを思い出してみると、自分の土地や家でどんなことが行われていたのかいろいろな形で現れてくるのだ。
ボクもそうだった。うちのそばは「ハルそば」(ハルは、曾祖母の名前)。曾祖母が小さい体を懸命に伸ばして金だらいで水回ししていた様子を思い出す。いや、そんな光景など見たこともない。もうじき、80になろうとする父さえ憶えていない。だが、曾祖母が作っていた自然薯のそばは父の舌に確実に刻み込まれていて、見よう見まねのそば打ちからボクは、曾祖母に近づいていった。ボクはハルそばと呼び、曾祖母が若い職人たちにふるまっていたように、ご近所にふるまうのである。
さて、包丁の話に戻るが、実はただの包丁ではない。百円ショップの包丁である。あの高価なそば包丁とは対極にある安物。しかし、鍛冶屋の子孫であるボクは、それをしっかりと研いでいる。砥石も百円ショップだが。
この日も子どもたちであふれた。たくさんの子どもたちがわりにいい加減な気持ちで参加し、神妙な表情でそばを持ち帰る。簡単ではないが、そう難しくもない。そばに向き合って、それが形をなす。原料から食材、食品、食事に育っていくさまをわずか30分の間に自らの手が行い、実現するのだ。ぞんざいな気持ちになれるはずもない。40人。約4時間立ちっぱなしだった。腰は痛いが、今年もこうやって人に出会えた。
ちょっと気になったのは、小さい子を参加させる親の態度だ。ちょっとだけ親が手を出してあげることで見違えるほどいいそばにしてあげられるのに、「最後まで自分でさせます」と初めてもつ包丁に手を添えることさえしない。体験さえパッケージで切り売りされる時代じゃないかと思っていたが、その通りだ。できればいっしょに作って、いっしょに味わって欲しかった。おそらくは味はいいものの食感がよくないそばに、彼女の力不足を断じる声が食卓に残ったのではないのかと危惧する。ちょっとでも親がかかわると、一遍に共感的になれるのに。
別のコーナーでは、バッケンくんがストローカイトを作っていた。いつもはこういうときにアシスタントにしていたが、今日は、ピンで任した。いろいろ考えてやっていたようだ。昼飯代の謝金をいただいたようだ。そのお金は、参加してくれた子どもたちの一人一人の表情を思い出しながら使うんだぞ。