教育基本法改正

昭和22年の法律が手つかずで残っていたことにいくつもの意志の交錯が見える。しかし、こんなものでは何を改正したのかが全く見えない。
今回の議論で最も苛立っていたのは、教育を「学校」の領域だけで議論していたことだ。そのなかでも「学ぶ」ではなく、「教える」ことの立場から見下ろすような議論ばかりで、一体この数十年の教育を学ぶ側から捉え直そうとする幾多の試みが何だったのかと思わせる体たらく。行政側からすればどうしても「教える」という立場になりがちだが、人の「学び」を支えるという真に格調のある「教育=学びの憲法」に生まれ変わるチャンスをむざむざ逃した罪は重い。
生涯学習という30年以上も前に提示された概念が、未だ定着していないことを感じさせる。残念でならない。このあと、学校教育、家庭教育に関する法律改正が進むのだが、教育基本法を推進していくものが各の学習者であり、それを支える教育行政、そして、理念を形成していく政治という図式が見えない限り、粗暴でエネルギーの突出だけを売りにしたヤンキーの言い方に議論の機微は均されてしまう。それは、芸人のオチギャグのようなものだ。中身ではなく、ギャグでオチる。
ボクには国会に押し掛け涙を流す人々の本心もわからないし、声高に改正を訴えた人々が快哉を唱えている理由もわからない。むしろ、これでしばらくの間、戦後的なものを彩りに添えながら奇妙な解釈論理を付け加えたいよいよ曖昧なものが、改正を担保に生き残ることが悔しい。逆に、いざとなったときの火種をちゃんと残しておいたという穿った見方をしておくことにしよう。