「ゆとり教育」再評価

寺脇研というと学校教育関係者のなかに、学校をダメにした人という評価と、この人こそ教育をしっかりと捉え直した人との評価が2分している。ボクは後者に属するし、今もその考えは変わらない。
例えば、総合的な学習の時間について、「こういうものはすぐにだめになるので自分はまともに取り組まない」と言い切った人がずいぶんいる。それが現在の学校の倦怠感を生み出した原因だが、その構造を作った人をスケープゴートにして溜飲を下げている馬鹿者が少なくない。
安倍総理が、戦後レジームを変革しようとしているのなら、教育はすでに30年前からそんな時代を想像し、予め手を打ってきたのだと言い返したい。
1987年の臨時教育審議会の答申でのキーワードは、少子高齢化、国際化、科学技術の高度化、情報化である。実際、その未来予測通りの社会状況が20年経って生まれているんだけど、そうしたものへの対応が従来の教科教育、とりわけ、主要教科などとほざいている英語、国語、数学(算数)、社会、理科のこれまでの内容では無理がある。そういう視点から、生活科や総合的な学習の時間、その他の横断的・統合的な取り組みが進んできた。
その点は誰にもわかるだろう。教師のなかには、教科の既得権益をどこまでも守ろうとするコンサバな人もいるんだろうが。
そうした考えに沿って生まれたのが、現在のアーキテクチャで、それ以前に提案された生涯学習の概念と相まって、学校=教育という概念を、生きる=教育、学習と発展開放させたのは、この時点である。それでも世界的には少し遅れていたわけだけど、大胆に元々あった地域社会の力を借りて、社会ごと人を発展させていこうとする考え方はバブルの崩壊ととともに、新しい時代のパラダイムになったはずだったが、社会は20年遅い。今になって、学力をどうのこうのと言い出した。あのとき、「見える学力」「見えない学力」なんていわれて、かのベネッセですら「見えない学力」を売り文句にしていたはずなのに。今や、読み書きそろばん。わかり、知り、書ける奴が学力の高い奴になってしまった。
安倍はすでに戦後レジームから脱している教育を戦前というレジームにシフトしようとしているのだな、きっと。
前置きが長くなった。読んでもらえばわかる。どうして、この人のことばに波長があってくるのかというと、この人が文部科学省生涯学習振興課の課長だったからだろう。ああ、あそこだなと思えるのは、何だかうれしいことなのだが、それよりも、ボクが学校で学んだことよりも、学校から出て学んだことがあまりにも多すぎるという自己の経験が、学校は学び方の基礎を学び、身に付けるところなのだという発想に得心いくからだ。
この本をどう評価するかで、コンサバ試験紙になりそうだ。気を付けなければいけないのは、そうしたコンサバが戦後レジームを脱して、戦前レジームにリンクしようとする場所に共感しているかどうかである。本人は、そうした着物を着ていることに多くの場合、気付いていない。赤い着物を着たコンサバもいるからね。

格差時代を生きぬく教育

格差時代を生きぬく教育