フライの雑誌77号

今回の特集は「フライフィッシングの教え方」である。おもしろい企画だが、企画倒れになっていないのは立派。「教え方」を通して、その人のフライフィッシングのスタンスというのか、態度が見えてくる。
ちょっと突っ込んでみたい。

座談会

習いたいと思う人がたくさんいることに少し驚く。釣りなんて一人遊びなので、基本的な部分さえわかれば、あとは自学自習、独学自尊であると思っているボクには、意外な印象もある。だが、スキーなどでも多少は教わるとずいぶんとその後が違うので似たようなものか。ボク自身はスキルは二の次。そんなもの自分で何とかしろと思っている。基本的な部分とは、この遊びは何がおもしろいのかを伝える。フライフィッシングなら自然が反応してくれることとままならぬこと。
子どもはむずかしいとあって「フライフィッシングの何たるかを理解してもらうのはむずかしい」とある。何たるかも考えないでやってみようというのは新しいゲームソフトをインストールするようなもの。モチベーションが成立してない学びはくだらない。子どもが飽きるのはおもしろくないから。そのものに興味がないのに教える理由はない。親についてきたような奴、親が教えたがっているような奴。そもそも、動機を欠いている。
誰かに説明すると自分も再発見するのは本当だ。そういうのをリプリゼンテーションという。

ノットの話

釣りを始めようという奴が現場でノットに苦しんでいるのをみると自分の昔の姿を見る。自宅でやっていたってわかんないんですよ。それが何につながるのか。
ライズを前に絡んだティペットをどうにかするのがいい。それでめげるようならそこまで。
かつて、A川で絡んだティペットを延々とほどいていたoozoraさんをみて、のりさんは「いい釣り師になるかもしれない」とつぶやいた。
相変わらず渓流デビューってことばがあるようだ。
ここらには、渓流しかないので、ほかにデビューのしようがない。

しゃべりすぎにご注意

まあ、たいてい教えたくってしゃべりすぎます。
ボクは余計な話ばかりしますが、しゃべっていないと自分の釣りになるのを散らして、その人がやりたい釣りに合わせているようなものですな。

どうか彼女が

女性にも教えてみたけど、さあ、その後どうなっただろう。彼女は釣りをやりたがらない。ボクが釣っているのをぼんやりとパッチワークしたり、本を読んだりしながら見ているのが好きらしい。彼女がやると、ボクはずいぶんお節介になるだろうから、そこを見越しての配慮らしい。

キャスティングなんてコマ回し

現役の先生らしい。そもそもカリキュラムにフライフィッシングなんてないぞ。いや、総合的な学習の時間なら何とかなるか。いい時代だな。子どもがキャスティングだっておもしろがるのはわかりそうだ。できないことが多いほど、できる奴はリスペクトされ、フォローワーを生む。コマ回しにしても、メンコにしても、凡そ実用的ではないものこそ、遊びの要素に充ちている。そうした技術に価値を与えるのは、人の側なのだ。王冠でさえ宝物になるのといっしょ。

トラウト・イン・ザ・クラスルーム

どこにでもある光景なのだが、アメリカの実践と聞くとやけに理念がしっかりしていると思ってしまうのは、敗戦被占領国のトラウマか。

入門者にポンと渡したい一冊

フライフィッシングの名著には未だ出会っていない。フライフィッシングそのものをブンガクに仕立てるのは無理である。文字にできるくらいなら釣りなどしない。どんな名文も表現も、核心の手前で躊躇し、逡巡し、結局、何も見えないままにこうもあろう、ああもあろうと彷徨う。彷徨う心象にブンガクを感じるまでのこと。

岩井渓一郎

釣りが初めての子どもにいきなりフライフィッシングをさせようとしてもキャスティングがあるから絶対挫折する

させようとするからいかんので、やりたきゃキャスティングくらい真似するって。子どもをあんまり甘く見ちゃいけない。虚栄心や慢心でフライフィッシングをしたい人たちと違って、うまくいかないのが単純に悔しいのですぐにうまくなるって。子どもとのやりとりがきっと間違っていると思う。

テレビゲームやっているよりはバス釣りしているほうがよっぽど健康的でしょ

また、こんなステレオタイプか。そりゃ、卑怯なもの言いだよ。健康的でなくったっていいじゃないか。釣りなんかに血道を上げる連中はどこかで鬱屈しているんだよ、って言われたって同じことをネガポジで表現しているだけ。