厳しいプレイ

惜しいというのは、どこかに甘さがあるんだ。
グラブにさわったボールは意地でも離さないという執念は、実はそれ以前の動きで決まっている。決めていないようには、動けないものなのだ。力負けではない。最初から負けている。それがたまらなく気に入らない。それでゲームを最後まで観ないで球場を後にした。昨年と変わらないとしたら、それは停滞ではなく後退である。昨年よりも悪いとしたら、それはすでにアスリートの彩りを欠いている。中心選手じゃないのか。
甘い。ある場所に安住している。スタンドもそう思えた。その場所が与えられたと思っている奴とその場所を守っている、取ったと思っている奴の差だろう。
単純に「うちの子が活躍してくれればうれしい」と思えるほど、ボクは子ども好きである以前に、野球が好きである。
当分、あそこでは同じように考えられないな。スタンドもボクをそう見たと思う。それでかまわないし、真意をどう感じてくれるだろう。監督のせいではない。野球とどうかかわってきたかの質が問われているのだ。
5対3。これが、近代野球のゲームになった形である。そんなことも考えずに、拍手しメガホンをたたくだけにスタンドなどにいたくはない。