公共ということ

昨日の眠りがけからずいぶん引っかかっている。公共を担うのは市民であって、市民の付託により公共団体がその一部を執行しているのだという気持ちがずっとある。何かあると「行政の責任」みたいな発言になることへの嫌悪感はすさまじく、また、そのことばに秘められた行政への丸投げ、依存体質もいよいよもって忌み嫌っている。
と考えてきたとき、では、地方の立法権はどこにあるのだろうかと、そんなことを確かめたくなった。立法、行政はそれぞれ議会、内閣などと教わってきたが、地方議会ともなるとその在処がわからない。現実に立法権がある。しかし、その機能の多くは、行政というか、執行機関の監視機能に割かれ、十分な立法、つまり、政治機能を果たせないでいる。
地方と国のそのような性格の違いは、首長の選出が議会に立脚した議院内閣制のような間接選出ではなく、直接選挙によって選ばれることにある。故に、地方は大統領制に近い性格をもっていて、国と地方のあり方を単純な上意下達の中央集権的な成り立ちから解放しようとした憲法の考え方があると考えていいだろう。しかしながら、その理念はそれほどには展開してない。
首長にも立法的な権限があることから、政策決定と執行を首長部局でまかなってしまうことも可能で、そのことが議会の権限を相対的に小さくしていると言っていいかと思う。
今後、地方分権から地方主権という形で、それぞれの地域が地域の実情に合った政策を実行していく場合には、地方がこの制度の利点を生かす必要がある。それはとりもなおさず地方議会制度の見直しも含めて、現状の分析とより多くの責任と役割を果たせる姿を検討していくことに違いないが、根本的な問題はそうした制度的な枠組みよりも、もっと本質的なところにあるとボクは考えている。
それが、公共ということなのだ。ここが突破できなければ、幾多の制度改革も乗り越えられない。公共の担い手である市民にその公共の意識があり、公共的な意志の発現の可能性があるのか。
これから、少し考えていくことにする。
いいきっかけをもらった。
基本的な考え方として、個と社会は逆立しないと思っている。社会を組織と変えても、集団としても同じだ。野球のチームプレーの発露を犠牲バントに見るような安直な公共を許してはならない。