体験と経験

経験知とはいうが、体験知とは使わない。
「ひと夏の経験」だが、「ひと夏の体験」ではない。*1
文部科学省は、体験的な学習というが、経験的な学習とは言わない。一方で、学習経験と言い、学習体験はあまり使われない。生活経験や生活体験はしばしば用いられるが、どちらかというと、生活経験が上等な気がする。
そういう曖昧で一部混乱しながらも、しっかりと使われてきたことばだが、今日、ある論文を読んでいると、あっさりと整理してあった。

経験が正確な思考の基本概念であるなら、体験はきわめて感情を主体としている

体験とは、何かの対象に、個人が主観的に関わりあうことである。その関わり合いについて、感覚や内省(わかちあいやふりかえり)などを通して得られる、より客観的な、対象に対する知的認識やその獲得過程が経験である

なるほど。
知的であるかどうかはともなく、ボクらは感覚的に通過したできごとにしばしば意味を与える。ただ旅を重ね、町を歩き、ものを食らい、眠って起きただけのものを人生に喩えて語ることができるのは、そういう仕草、とりわけ思考と洞察のふるまいを有しているからであろう。ボクはそこに見えざるものの意志を感じる。事実ではなく、感情だけではなく、意志としてふるまいを左右するからには、それは経験であって然るべきだろうと思った。
ゆえに、釣ったことをいくら書いてもブンガクにならないが、釣りを書けばブンガクになるかもしれないのだ。ままならず釣りに向き合っている自分に向き合えば、あるいは、テツガクかも知れない。
ボクの仕事にもかかわることだが、どうしてそんな難しいことを考えているのかと聞く手合いもあろうか。ならば答えよう。考え続けることしかできないのだ。考えることを止めてしまえば、ボクが作り出すものは単純に、少年時代のくじびきのシートのように、外れの落ち着き場所と当たりへの焦燥感でいったりきたりするだけのものになる。ボクは世界と生きられない。
後輩の文章であるが、おもしろい。同じ雑誌の第19号に書かれた拙文を読み返したくなった。全くわけがわからないと評した人物は、そうか、今のボクと同じ職場で同じ役職をしていた。

*1:大塚恵一先生は、ひと夏の体験なら歌にはならんわな。取るに足りない、と仰せになった。とある先生に聞いたが、本人がそう言ったかどうか。