入学金未納や橋下涙

入学金未納のため入学式への出席をさせなかったという事件なのか、トピックなのか、単純にできごとなのかわからないけれど、事後は事件として成長した話題だが、「情」を優先する意見が多くなる。こと子どもに関してはそのような空気が支配的になるのだが、では、規則とか、法律とか、手続きとかはどういうことになるのかとも思う。約束された期日があって所定の手続きを済ませていないと言うことが一体どういう事態を招くのかについて想像力が極めて質素に陳腐に安易にしか働かない人々がどこかにあるのだろうと思う。
同じように橋下知事の涙も反応がいろいろあっておもしろい。報道を見る限りは、海千山千のおじさんたちにやりこめられ悔し涙を見せる知事の構図だったが、ない袖を振れという市町村の姿勢にもどうかと思う。橋下を選んだのは、市町村民でもあるのだ。そのことをどう理解しているのだろうか。民意は橋下改革をどういうかたちであれ支持した。そのことへの敬意を払うべきである。「血も涙もない」と言ったのでとりあえず涙を見せておいて、「あるよ」と示したのだとすればネタ的におもしろい。
あまり知られていないが、あそこで橋下が強硬な姿勢に出られないのは、都道府県と市町村は対等だからである。都道府県知事も市町村長も直接選挙で選ばれたいわば「地方大統領」であり、その権限の及ぶ範囲は違っても対等である。都道府県は、市町村レベルでは取り扱えないものを処理する行政機関なので、違いはそこまで。と考えると、都道府県の補助金を当てにしている市町村という構図が極めておかしく見てくるのだと思うが、どんなものだろう。それも「情」なのか。
そんな曖昧なもので「公共」の基準を作るのは、空気の重さを測って世論の基準を作ろうとするものだ。