陳腐化

ことばが陳腐化していないかと時々感じる。
小学校5年生の時から新聞だけは欠かさず読もうとしていたし、また、新聞に書いてある程度のことは何とか理解しておきたいと思い続けてきた。仕事でもそうだが、わりあいしっかりと話す必要があるときには、新聞で使われていることばをほぼ説明なく使うことにしている。
中学生くらいの頃は、何とか投書欄くらいのものは書けるようになりたいと思い、長じてからはコラムや社説程度には反論できる程度の教養は身に付けておきたいと考えてきた。
ところが、このところ、投書を見ても乱暴しきりである。ボクが読んでいる新聞では、およそ、議論といえるようなものではなくなっている。一方的で、独りよがりで、そのうえ、社会告発はあっても、自分自身に当事者意識がないクレーム型が増えている。
そう思っていたら「死に神」である。
それはひどい。法相に単純に共感するわけにはいかないが、法律を執行することにおいて責任を果たすものへ向けられた、また、そのことに議論があるという情況を踏まえた言い方では決してない。何とか言う色っぽい流行歌手の失言に近い。
ダナーナイフによる凶行で、どうしてそういうものが規制されないのか、刃物の使い方を学校で教えないからだなどと、勝手な言い方がまかり通っている。殴っても人は死ぬというリアリティをそもそも喪失したままの議論では、核爆弾の存在が悪いので、使用するのは、そんなものがあるからだという論理さえ平気で通用する。
この間、釣り番組でキャッチ&リリースの風景を見たのか、ちゃんと食べてあげてそれで完結だ、関係者の意見を伺いたいというのがあった。80歳くらいの人だったな。こういうのに出会うと、むしろ、ほのぼのしてしまう。がんばれ!自分が割り切れないことをもっとはっきりと叫び、問いただすべきでもある。
こと上げするときには矢面に立つ覚悟がいる。