いつかどこかで
Number誌に掲載された金子達仁のエッセイ。昨日、病院の待ち時間に読破。
スポーツライティングにNumberが果たしたものは小さくない。勝ったとか、負けた、感動したなどいう元総理のとんまな絶叫のようなものに支配されていた(いる)スポーツをまともに批評したのは、草野進*1だったろうか。この人も、かの「江夏の21球」の、例の有名な場面以外の何気ないシチュエーションがピリピリしてしまう瞬間を読み解き、描き、そこからボクは「教室のエロス」という考え方を導いたことは、当たり前だが、知られていない。最も、山本七平の「空気の研究」のように、その場を支配する<雰囲気>にはっきりとした考察を加えた例はそれ以前にもあったが、娯楽に見られていたスポーツを評論、批評のレベルで捉えることを一般化したのは、Number誌のはっきりとした功績である。*2
そのNumberを代表するライターの金子があろうことか、過去に書いたものにコメントを付けて本にしたという限りなく潔くないものである。こうなると、後で書いたコメントの部分しか読まない。我慢して読んでみるが、結果のわかっているサッカーのように、勝敗や勝負への執着、執念などの情意を感じられなくなっていて、技術や戦術に目が向いてしまう。文体がずっと気になってしまった。
ボクも物書きの末席にはめてもらったからそんなこと言えるほどではないのだが、だめだ。「ひでぞお君」などと書かれているのは、どうにも嫌な気分になる。楽屋落ちか。そうでないのはよくわかる。人を描くことでプレーの奥行きを出し、その出会いの深さをそうした表現で示している。たぶん、直になれると思うけれど。
想像力、説得と納得。そのことばに筆者が強く反応している。
ボクもよく使う言葉だが、サッカーとは勝たなくてはならないのだと言い続ける割にそこらの表出に驚いている。エッセイだから読者に共感してもらうしぐさだとは思うが、それはあまりにも読者を浅く見てはいないか。
おもしろくはなかったが、やはり、予想どおり、想像力を発揮するまでもなく、スポーツライターが自分のことを書くと面白くないのである。ボクといっしょである。仕事の文章はおもしろくもへったくれもない。
- 作者: 草野進
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1988/01
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 1回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
ボクの本も、アマゾンが品薄だとなると、世界中に品薄感が広がる。ウェブってそういう覇権から遠ざかる装置じゃなかったのかな。