三浦さん

灰色という言い方が定着したのはロッキード事件だったろうか。国会の証人喚問がメディアコンテンツとして確立した事件だ。コーチャン氏という何だかとても慣れ親しくなりたい名前がしきりに流れ、当時、中学生のボクをわくわくさせた。いや、教室の話題さえも、それであり、猪木やアリと同様に、コダマヨシオは注目の中心にいた。
数年を経て、テレビで一美一美と泣き崩れた日米を渡り歩くサングラスの伊達男の疑惑が走り回った。いわゆる「三浦さん」という表現は、絶妙に報道とエンタの隙間に入り込んで、世相放談の竹村健一の相手をする小池百合子の姿を視界の中心から逸らしていた。三浦さんに寄り添うヨシエさんという美女の存在や、スドージンイチローやフクオカ何とかの陳腐で哀れとさえ思えるような、それでいて何かにしっかりと支持されている正義感とともに、スダテツオの眉間の皺に刻み込まれていった。
無罪判決はセンセーショナルに報じられることもなく、サイパンでの拘束から、国民的に忘却されそうになっている瞬間に、呆気ない訃報ですべての幕が降りた。終幕のクライマックスの前である。驚きの事件となった。
これで、三浦さん事件(一美さん銃撃事件ではなく)が積極的な評価プロセスを経ることもなくなってしまうのだろう。宮崎勤の総括も放ってあるというのに。