スポーツクラブ

勤務帰りのラジオで*1川渕三郎が話をしていた。
川渕三郎のことを詳しく書くのは全く面倒くさいだけだが、プレーヤーから監督、そして、サッカー協会の重役として活躍した人だが、古河電工の役員でもあった。ボクらの目の前に強烈な印象で現れたのは、Jリーグのチェアマンとしてだが、サッカーというカテゴリーに留まらない地域スポーツクラブという100年の理想を強引とも思える手法、今から思えばそれは企業家としての明確な戦略があったのだが、一気に状況を変えていく力は日本のスポーツビジネスを変えてしまった。いや、実は変えたかったのは、スポーツ文化の方で、そのための布石を次々に打ち、そのいくつかが確実に芽を出している。
川渕三郎がプロリーグを立ち上げる頃の日本は、アジアでさえ戦えない状態であった。日本代表戦に客が集まるわけでもなく、天皇杯の決勝ですら空席があった。数日後のラグビー日本選手権の準決勝の満員の客がいとしいくらいである。昨年のクラブチームワールドカップは、彼の積年の夢の一部を現実にしたもののように思えて、その意味で価値があり、さらに、ヨーロッパの強豪チームと戦っていたのが、浦和レッズであったことも象徴的だったろう。
ドイツのスポーツクラブを見て文化の違いを感じた川渕は、100年経ってもこのままでは日本にそうした文化としてのスポーツが芽生える可能性がないと思っている。ヨーロッパのクラブチームは、みんなでボートでもやるかと集まった連中が小さなクラブを作り、じゃあ、ラグビーも、サッカーも、陸上も、スキーだって、ことによればモータースポーツや釣りだって。動けない人は観戦すればいいし、お茶を飲みながらスポーツの話をすることだっていいじゃないかと広がり、発達したものらしい。
では、どうするのか。
川渕の優れた発想がそこにある。世界言語ですらあるサッカーなら、日本というリージョンだけでなく、世界に出て行く要素を秘めている。このワールドワイドなコンテンツでモデルを作ってしまおうと考えたのだ。日本的なトップダウンでありながら、そこに正しい「理念」さえあれば形を作り、文化を生み出せる。果たして、そのような姿も現れている。
ボクが住んでいる県では、JFLの上位2チームが合併して行政の応援を得ながらJ2入りを目指している。あまり知られていないことなのだが、Jのチームは基本的に、川渕の掲げた地域スポーツの理念に基づきホームタウンを持っている。このホームタウンは、最初は市町村を単位とすることになっていて、ベルマーレ平塚湘南ベルマーレを名乗ろうとして咎められたことがある。しかし、現在は、資金援助などの関係もあって複数の市町村域でホームタウンを構成することが認められ、湘南のような地域名を名乗ることも可能になっている。しかし、ボクの住んでいる県では、実は県域をホームにしている。これはどうなのかと。神奈川では考えにくい。これも特例があり、行政の支援の在り方次第でそうした県域ホームタウンが可能になっている。実際、政令指定都市程度の人口しかない県ではそうでもしないとチーム運営が立ちゆかない例もあるだろう。その特例を適用されている。そのせいで、近所にあったチームがすっかり遠くに行ってしまったのだが。
しかし、川渕が話したように、地域スポーツクラブが100年経っても現れないわけではなかった。案外、その萌芽は、スポーツともにもたらされていたのである。
町の東に、ボクらが饅頭山と呼んでいた場所がある。また、脇子八幡宮の裏には小丸山を切り開いたグラウンドがある。そこには、実は、100年になろうかという歴史が残っている。
中学生の頃、饅頭山に遊びに行くと、何かの遺構らしいものに出会い、語ってはいけない秘密を見たような気持ちになっていた。調べると八紘舎と呼ばれる道場の跡である。太平洋戦争をはさんだ頃にここに道場が設えられていた。作ったのは、地元の有志が結成した馬鬣クラブ。饅頭山を抱える山の名前を取っている。この馬鬣クラブが実は、川渕ができっこないと思っていたクラブであった。
大正10年、草野繁松が同志8人とともに、スポーツや文化活動を通した新しい人間形成を目指すことを目的に創設。この理念は、実にJリーグが掲げたものと相通じている。スポーツは元々そうした理念とともに導入され、どこかで理念を失ったのだ。失ったきっかけは恐らくは戦時体制であっただろうと容易に想像できる。
このクラブで、町衆が競輪のために拓いた小丸山遊園*2軟式野球大会を開催している。昭和に入ると、越中・越後の国境地帯にあるため、両越大会と称する競技会を開催する。学童陸上大会、マラソン大会を始めとして、学校登山の先進地らしく、白馬岳立山登山、美術展や禅の会、スキー大会を開催している。
特に、陸上では、早稲田大学で活躍した南部忠平を昭和9年から昭和12年に、また、織田幹雄を昭和12年に大会に招待している。2人との交流はその後も続き、南部忠平を招いた折りの会長であった本村本松が亡くなった折りには、南部忠平から香典が寄せられそれをもとに本村杯という陸上タイトル*3を創設している。
八紘舎が作られるのは、昭和17年。ボクが見た廃墟は、昭和50年頃のことで、その頃、活動は多くを体育協会が引き継ぎ、かろうじて、本村杯の授与が町民体育大会に残っていたばかりであったと記憶している。
昭和55年、クラブは60年の活動をまとめ、その歴史を閉じている。
体育協会に引き継がれた活動の多くがスポーツ競技会であったこともあり、また、スポーツが町内というレベルでさえナショナリズムを背景にモチベーションを高める状況下で、馬鬣クラブの理念もどこかに置き去りにされてしまった。
その馬鬣クラブが活動を終えて約30年。今、再びスポーツに理念が戻ろうとしている。しかし、ボクらが忘れてはいけないのは、そうした先人がむしろ私たちのはるか前方、はるかな未来を見つめて活動していたということだ。目先の利便性や、利益だけでの議論ではなく、100年経っても廃れない理念について、もう少し語るべきなのだろう。
川渕の口から「理念」を聞いたときに、書き留めていたメモを思い出した。
町の図書館にしっかりした記録があるはずだ。明日にも、調べに行ってみたい。

*1:ボクはカーラジオ、それもNHKが好き。おじさんだな。

*2:泊小学校がここで明治39年に運動会を開催している

*3:昭和42年開催の第11回町民体育大会の2000m継走の優勝チームに授与。以後、形を変えながら継承されているが、近年「南部杯」と曲称されているらしいことも