筑紫哲也

地元の高校は特に進学校という訳でもない学校。
高校の担任が、高校生に必要な知識や理解力の目安には、おおむね朝日ジャーナルが読める程度かどうかを目標に設定できると話したことがある。実際、そのように思っていたし、そうなるよう物事を考えるようにした。「読める」とは意味が分かるということではない。そこから自分なりの考えを構築したり、批判を行っていけるかの態度まで含まれると思った。
大学に入ると、朝日ジャーナルは、すでに学生が読む種類のものではなくなり、やがて、バブルが始まり、そのまま雲散霧消した。
ジャーナリズムということを考えたとき、いくつもの場面で筑紫哲也があった。
その功績はあきらめずにことばをはき続けたことだろう。ともかく議論をおこすこと。ジャーナリスティックであることから遠ざかったいくつかの新聞雑誌の切り抜きをしたり顔で見せられるほどへこむものはない。
精神はスクラップできないのだ。