走れメロス

山崎正和朝日新聞で今回の衆議院選挙を総括するような文章を載せていて、山本七平の「空気」などを挙げて、この奇妙な高揚感で上がり下がりする様子についてうまく表現していた。それは読んでもらえばわかるのだが、ふと気になったのはポピュリズムである。
小泉の時代がそういう「空気」に包まれていたことへの批判が広がっているが、批判そのものの活発ささえポピュリズムの風体をとっている観さえあって、いずれにしても天秤の針は振れすぎるじゃないかということなのだが、思い出したのが「走れメロス」である。
あたかも友情の物語であるかのように言われている太宰治の中でもあまりにもよく知られているこの作品は、国語の教科書ばかりか、道徳の副読本の資料にさえ使われていて、多くの人々がそのあらすじを語ることさえできよう。あるいは、24時間テレビとかいう、感動することが目的になってしまっている耽美的な超ワイドショーのメタファーにさえ用いられるような。
太宰自身はおそらく、今、「走れメロス」がどのように読まれているかを知れば、「赤面した」に違いない。
面倒なのであらすじも何も書かないが、太宰は刑場の場面での王の変節にこそ物語の中心を見ている。自分の正義を貫き、そのことで死ねなかった自分を恥じ入っているメロスの姿に、親友すら理解を届かせていない孤独な現実にうちひしがれるメロスの物語に、今回の選挙が重なってきた。あの刑場の様子をボクらは見せられているのではないか。
太宰治が嫌悪したのは、王の醜いポピュリズムではなかったか。衆愚ではなく、劣悪な迎合という名の民主主義的正義。そんなことを考えた。
なぜ、どうしてを考えることのない時代だと、この数日前からたくさんの言葉が流れている。必要なのは選択以前にある思考やら議論であったはずが、沸き立つ刑場で友情の中に加えてほしいと臆面なく語り、その王の変節を歓呼をもって称え、いつしか男の信念を、友情の名前で生きながらえさせてしまったポピュリズムこそ、「走れメロス」の主題ではなかったのか。