野次と質問

国会中継が始まった。クルマの運転中にはなかなか飽きない。
今日は参議院の代表質問だったが、野党慣れしていない自民党の声高で居丈高な物言いが、どこが民主議会なのだと、下野したのか野生化したのかわからない品のなさが妙に耳障りであった。一つ一つ、とにかくでかい声で圧倒する。「革命なんて声の大きいもんの勝っちゃで」というのは、安下宿共闘のリーダーに語らせたいしいひさいちのことばだが、まさにそうした不毛なノリを未だに待ち続けて、正当化する議論を延々とこなすのは、すでに言論における権威が無化され、均等になってしまった現代においてはやけに古くさく感じる。
内容もいけない。
あれだけいっておきながら財源不足とは何ごとか。いや、そういう財政構造を作ったのは君らの党だし、それについての総括なしに聞くなよ。
基地移転についてふらふらした発言が続いている。発言さえせずに放置プレイに勤しんでいたのは、あんた方だ。動かそうとしたら多くのほころびが出てくるじゃないか。
あれだけマニフェストで言っておきながら何もできないじゃないか。そう簡単にできるわけはなく、中長期的な政策を実行するための財政構造の改革さえまだ端緒である。何も言わず、さらに、何もしてこなかったのはあんたたちだろう。
民主党の支持者ではないが、どうにも議論ではなく、難癖なのだ。閣内不一致とか言っているけれど、それぞれのセクションが考えたことを提示して政策化する。その政策についての妥当性を総理する。それを総理大臣というのだ。
大声で叫ぶほどのことはない。お手並みを拝見すればいいのだ。何を叫んでもみっともないだけだ。ケビンなんとかというよく討論番組に出てくる外国の日本系の人のような感じである。断定と大声。そういう民主主義は終焉を過ぎている。新日本プロレスのインタビューならまだまだ通用するが。
さらに一層酷いのは、野次である。もう、ラジオでも聞き取れるほどである。
県議会を膨張したことがあるが、賛同の拍手も野次も傍聴者には許可されない。そこは議論の場で、不規則発言が容認される場所ではない。会場に、100人の出川を置いているのかと思えるほどである。内容もその程度。
自民党は、結局、何が国民の支持を失ったかをよく整理できていない。きっと、堺正章の前妻のコメントに近い違和感である。
テレビ番組のしゃべくりの方がちゃんと聞いていられる。それは、議会制民主主義の国としてどうかしていないか。