パソコンという思想

本棚に1990年の「パソコンを思想する 社会的・哲学的側面からの考察」という翔泳社が出していた雑誌みたいなオムニバスがある。まだ、時代はMS-DOSで、ボク自身はVZEditorでほとんどの仕事を済ませ、仕事では、FMTOWNSでマルチメディアの萌芽を体験していた頃だ。マルチメディアなどはMacが非常に高価なマシンでどうのこうのと言っているけれど、一般のコンシューマ向けにはCD-ROMさえ珍しい時代だ。むろん、Windowsはなく、それでも、UNIXの世界によいシェルがいくつかリリースされ、X68000がもうすでに今やっているいくつかの仕事を平気でこなしていた頃だ。MacintoshもSEがリリースされ、本格的に使えるパソコンになろうとしていた時分だ。もしかしたら、MSがAppleに凌駕されるんじゃないかという期待もあったかな。
本はもう20年も昔の古くさい技術水準をもとにしているのに、語られている多くの事柄は陳腐化していない。今もその問いかけは全くもって有効であることに、哲学というものの性格が見て取れて嬉しくなる。
プロジェクトを進めるときに、その仕組みやら方法、その先進性をことさらに問題にする立場がある。今ならこういうことができるんですよと、最新の用具やら技術やら、コンピュータなら最新機器やソフトウェアに移行すべきだとする立場であるし、また、使わない機能は損だと言わんばかりに楽をするのかどうかわからないが手立てを次々に示してくる。今まではこうだったんだけれども、そんなことはもうしなくていいので、こうやったら簡単にできると言われることも少なくない。
一方で、そういう使い方は別にして、私たちにとって目に前に現れている機械は何だろうと問いかけ続ける立場があって、それを哲学と呼んでいる。多くの場合、実際の使用には取り立てて便利な思考は少なく、そんなこと考えてそれでどうなるという部類のものが多い。悩みだけが積み重なって、結局何事もなしていないじゃないかと言われたりもする。
哲学とは、哲学の歴史でも、綿々と折り重なった思想の体系でもなく、問いかけ続ける態度のことやその振る舞いや仕草を表すことだけれども、そちらの方はどうやら技術の進歩とか、社会の変容とか、さらにはライフスタイルの変化などにも一向にお構いなく、初発の問いかけに継続して効力を持たせていることが少なくない。最初の立場の、「簡単にできる」技術というのがボクはどうも嫌いで、面倒だったり、厄介だったりするところに面白みがあるんじゃないかとする立場を一貫して、最初から面倒を回避しているものには全く関心がない。
そういうボクが哲学的だと気づいたのは、大学院の哲学の先生のゼミで、この先生は全く教えないのだ。ご自身もゼミの、例えば講読を通じてさえいっしょに哲学される。教育哲学が専攻なのだが、なるほど、哲学とはそのような行為を指すのだとわかってからは、自分も哲学者の端くれと思うことにした。ちょっと恥ずかしいくらいに哲学的な知識がない*1ので、テツガクとカタカナにして誤魔化しているけれど。
この本は、そういうボクがかなり影響を受けた本なのだ。今から見るとそうそうたるもの。
書き出してみると、岩谷宏、桝山寛、室井尚小阪修平、奥出直人、そして、いがらしみきお。この頃の論客と言うよりもテクノロジーと人間の関係について、テクノロジーにひれ伏すことなく書き切れる人々が集っていた。そのうえ、Macっぽいと当時は感じていた紙面デザインもわくわくしたものだ。翔泳社は「遊撃手」を出していたところで、少々Macめいた雰囲気がマニュアルくさく、教科書のようなMS系のものとは一線を画していて好きだった。このシリーズを少しばかり集中して買っており、今本棚を見ると、いよいよGUIじゃなくちゃという季節になってきた1991年には「WINDOWSがやってきた」が出ており、巻末のショートショートという愛読者カードのコーナーに、ボクのハイパーメディアの提案が掲載されている。ああ、そういうこともあったなと読み返すと、この本は、日本ではほぼ黙殺された2.11に続くMS-WINDOWS3.0を対象にしていて、いよいよMSが使えるGUIOSを出してくるぞというノリなのである。
「パソコンを思想する」では、佐伯胖の著書に言及している。認知主義の立場を取り、そこからコンピュータと人間の関係をこと、教育の立場で描いている佐伯の論考は、実はパソコンと人の関係、とりわけ、私たちのオブジェクトを取り扱う感覚の変容をどのようにもたらしていくか考えている本で、実はボクも読んでいて、そうしたオブジェクトやらアイテムやらがボクらの現実的な振る舞いと仕草に、それを決定づける思考のあり方や、もっと激しく広がりを持たせると、そうしたものがもたらす世界認識の在り方にどんなはたらきかけをするのだろうと考える論文のきっかけになっている。*2この論文は、パソコンなどを巻き込みながら、自然と人の在り方などにも論考を広げて、教育社会論的に3つぐらいに展開して、秋田やら千葉やらでも学会発表したものだ。どこでも、「パソコンは難しいので」というわけのわからない反応ばかりだった。そんなことを話していたわけではないのだが、パソコンの使い方の話だと思われたボクのプレゼンが全く機能していなかったのであるから、反省もしきりで、思い出す度にそのときに表裏で言われたことばに不安感情がわき起こる。全く誰からも支持されないというのは実におもしろいもので、数年間、10年近くに及んでボクを硬直させた。
ようやく、少々トラウマから離脱しているのか、その本を開いてみたのだ。今ならほっとして読める。しかし、まだ時代はこの本の問いかけに追いついていない。問いかけなどないままに進んでいる仕事のいかに多いことか。それが逆に証明されているとも思える。あの頃の論文を今、あの頃散々にののしった人々に読ませてみるとどうなんだろう。支持されるものなのだろうか。いや、案外そうでもなかろう。ボクは時代を先取りした思考をしていたのではない。振る舞いや仕草の種類が違っていたので、その溝は、同じ牛のことを話していても搾乳の仕方とすき焼きの作り方ほどに違いがある。その溝は、むしろ、用水ほどに広がっているのかもしれない。それが最近の自分自身の仕事の重さなのなら、納得いくとさえ思えてしまう。

*1:いや、本当に何もない。でも、永井均の仕事を見て、それでも大丈夫だと思い出して、安心もしている

*2:残念なことにその論文の元原稿は失われた。MS-DOSテキストで作成しているはずだが、一体どうなったことか。