フライマンを何とするか

フライの雑誌」最新号が届いた。第87号である。たぶん、めくるめく思いになる100号までもう3年ほどである。北陸新幹線の開業より早い。
今回の特集記事は、「Angling」誌。フライフィッシングの草分けを、別の雑誌で特集するというのも「フライの雑誌」ならではの、強引で豪快なやり方だ。姑息にならないところがいい。ボクも手に取った随分懐かしい表紙を見つける。フライ教室をやっていくときに、この雑誌に載っていた関連記事を切り取ってテキストにしていたことがある。コピーするわけにもいかず、切り取ったものに表紙を付け製本していた。あれどこやったかな。連載ものも1本にしていたので、よい資料となっていた。情報が乏しかった時代の記憶である。杉田玄白が解体新書*1を作るときもこんな感じかと思われた。
その思い出もいいのだが、それよりも投稿が際立っておもしろかった。
最近、「フライの雑誌」はフライマンという呼び方を、ひとつの標準形として、特別な意味がない限りはフライフィッシングを楽しむ人や人々をフライマンと呼んでいる。昔、ふらいまーんとか叫びながら便所で爆発して変身するギャグヒーローものを楽しんでいたボクとしては、最初のころ、少々違和感があったが、直に慣れてしまっていた。ボクはどういう用法をしていたかというと、ばらばらだったのだ。気分で、ことばのノリで使っていただけだ。
それを堂々と反論し、さらにその反論を雑誌の中央部に掲載してしまう「フライの雑誌」は、まだまだ武闘派であると感じられた。詳しいところは、読めばわかるのでここには記載しない。
それで、ボクの立場もちゃんと書いておこうと思った。
まず、ボクは松田聖子と同じ年の生まれで、ファンであることから、フライマンの呼び方を容認してもよい資格はあると表いる。
次に、元々の言語でどのような意味で使っているか、現地ではどういう表現をしているかどうかについては言語の性質としてそうしたブレや揺らぎはあり、また、そのことでことばが定着することもあるので、アメリカで何て意味に使われようが、アメリカにはその用法があろうがなかろうが、取り立ててどうってことないと考えるため、言語的に、フライマンが妥当であるかどうかについては、アメリカを持ち出して反駁する論拠は無効であると思う。
例えば、ツーベースヒットやゲッツー、デッドボール、ナイターなど、それでいいいじゃないかと考えている。ほかにもたくさんある。三沢光晴がバックドロップを食らって亡くなったときに、どこかの新聞で、本来バックドロップは背中を打ち付ける技なのに、後頭部を首筋からマットにたたき付けるものになってしまっていたと、バックドロップの危険性を書いていた人があった。三沢の死はバックドロップの直後に起きたが、バックドロップのせいではない。そこで起きてしまっただけのことである。あ、そのことじゃなかった(笑)ジャーマンスープレックスのことだった。あれをジャーマンと呼んでいるのは、ドイツで流行したとか、ドイツに起源があるとかではなく、ドイツ系の人が使ったのが印象に残っただけのことである。女性の靴にヘップというのがあるが、あればサブリナでヘップバーンが履いていたからである。いずれも、本来の意味などどうだっていいのである。
とすれば、フライマンということばが妥当かどうかは、私たちがそれを納得できるかどうかにかかってくる。そのための議論を起こそうと、五箇条のご誓文の如く、興論に決することにしたのが、「フライの雑誌」の立場だろうか。
ボク自身は、釣りに行くとはいうのだが、フライに行くとは言わない。そもそも、ボクの釣りはフライフィッシングしかなく、稀に小アジのサビキ釣りや海ルアーなどをやるが、そのときも釣りに行くという。
ちょっと議論からは外れるが、釣りキチという非常に危険なことばを釣り好きに充てることがある。別に通常の人から何かが逸脱しているわけではない。釣りを自身のスタイルに取り入れているだけなので、そこに入れ込んで狂おしいほどにのめり込んでいるわけではない。いろいろ物事を考えるときに、釣りをベースに思考することはあるが、それは仕分け人の白いスーツのすぐに読めない漢字のおばさんが無駄と無理の2分法で考えるのと変わらない。同様に、趣味は釣りですかと言われても、全く簡単に首は振れない。どうなんだろうといつも考え込む。趣味ってのがわからない。趣味には余芸とか、生業、日々のたつきに無関係なというくらいの意味が含まれているが、そんなわけにはいかない。本を読むことや、こうしてどうでもいいことを書き繕うことや釣りに行くこと、雪山で遊ぶことは、食う寝るに近いボク自身の営みである。それを趣味とは、キチとか失礼なと、いつも心の中で叫んでいるが、表情は、まあ、そんなところです、と答えている。
フライマンに話を戻そう。
フィッシャーと中に入れるだけで納得する人がいるようなのだが、フィッシャーというのは妙に漁師みたいで好きになれないところがある。フィッシャーマンズスープレックスというと、ジュニアの人やNoahの小川くらいの人がフォール技に使うような安っぽいイメージもあって、最近は、潮崎豪がしきりに使っており、デンジャラスな技に育てて欲しいものよのうと雅に期待もしているが、やはりそこには職人的な煌めきはあるけれども、どこまでもその世界に浸かっていたいと思わせるテイストに欠く。
FFマンでは、GT-Rには乗らんぞと宣言している人みたいだし、最近の人は、有名ゲームを彷彿するらしい。言語的にも、省略のためのピリオドを抜いているという欠点が見えてくる。何より、L.A.をエルエーと発音するようなやり方を用いると、エフエフマンとなり、フライマンよりも始末に負えない語感が生じる。雪国の人なら、クルマに加えて、強制排気型のファンヒーターを思い出すだろう。点検にでもおいでいただける様子も浮かぶ。
マンってのも、どうしたものかと。何かにマンを付けるのは、スーパーマンウルトラマン、きん肉マンの脈流をもつ伝統だが、今は、レンジャーを付けて集団化した方が多様化するニーズに対応できるようで、AKB48の成功は、おにゃんこやモー娘を挙げる人もあるが、基本的な考え方は、八手一郎がゴレンジャーで示したアイデアを源流とする。だからといって、フライレンジャーでは全くもっと意味がわからない。
となると、じゃあどうすればと思うのだが、いい案がない。
ただ、こんなことを少し考えている。
フライフィッシングはイギリスを発祥とするスポーツである。そんな言い方はしばしば行われるが、スポーツとは所詮ブルジョアの遊びであって、ブルーカラーには全く縁のないものであった。C.W.ニコルがテレビ番組で、イギリスでは鱒が泳いでいるような川はすべて貴族の持ち物で、そこで釣りなんかをしたら死罪さえあったと話した。そして、日本はいい国だ。そこらの川に鱒が泳いでいて、だれもが釣れる。そんな国はおそらくどこにもないだろう。と付け加えた。だったら、和製英語かもしれないけれど、カタカナという意味で、フライマンという日本語を使ってもいいだろうと思う。
スキーがそうなんだ。戦中、唯一原語に近い呼称を変えず、蹴球やら籠球やらと言い換えるなか、カタカナ表記で通したのがスキーである。ドイツもイタリアもスキーが盛んという事情もあっただろう。それでも、スキーはスキーのままだった。スキーに当たる日本語表記がないのも特徴的である。それでいいじゃないかとしても差し障りも少なかろう。
では、スキーをする人は何というか。スキーヤーである。スキーは道具の呼称なので、そこはアングラーと同じことだ。ボク自身はこの頃はアルペンスキーではなくテレマークスキーというのをやっているが、テレマークスキースキーヤーは、テレマーカーと呼ばれている。が、クロスカントリースキーをやっている人の呼び方はない。スキージャンプの人はジャンパーなのにね。結局、正しいとか、何か一定の傾向があるわけではないこともわかってきた。いよいよどうでもいいんじゃないかな、それぞれで。
多くのスポーツはプレーヤーと呼ばれている。だがしかし、フライフィッシングのプレーヤーではない。もっと深く人生の流れに食い込んでいるのだと叫ぶと、他のスポーツ愛好者に怒られるか。

*1:昨年、本物か写本か、とにかく江戸時代のものを見た。使い古されていたのは医学校にあったからだろう。