フライの雑誌88号

フライの雑誌が届いた。書店で買えない本である。釣り道具屋には、一部置いてあったりするが、田舎では送られてくるのを待つばかりである。縁あって、その出版社から本を出させていただいている。
88号の64ページに広告が掲載されている。
当初のチラシとは別バージョンの写真で、雑誌の大きさで、それもモノクロームになっていると、最近のボクの遊び論にきれいにはまって読み取れるから、愛おしく感じている。いや、この写真があったのでそんな考えをもつようになったのかもしれない。
時々仕事柄講演を頼まれる。自然体験活動を中心としたもので、多くの場合、子どもの遊びについて話してくれとなる。遊んでいるつもりは毛頭ないのだが、遊びさえ語り、伝え、教えなくてはならないほど、この社会は身になることを合理的に進めて得しようとしているのかと残念になる。真剣に遊ばない人はもっての他だが、遊びが有用だとか、ためになるとか、大切とか、価値を誇張させるように言わなくてはならないとなるとしんどくて仕方がない。遊びなんぞ、遊びである。ふざけてやるほど莫迦らしいこともない代わりに、何かの役に立つからとやるのなら最初からやらなくていい。趣味は読書です、と言い切るほどの人に、本をちゃんと読めている人を知らない。読書という所作が好きなのであって、本を読んでいるわけではないのだ。現に本は買うが読まない「本好き」というのもいる。遊びもそのくらいに、凡そ取るに足りないことであるくらいが居心地がいい。
遊びにはいくつかの要素が必要だと思っている。それがあればいいというわけではないが、おもしろいものには必ずその要素が深く絡んでいると最近睨んでいるのだ。
ひとつはフィールドだ。「遊び場」である。
もちろん、山川野や海のような自然はそういういみでは「遊び場」になる。ボクは仕事でフィールドナビゲーターと名乗っていて、簡単に言うと、遊び場案内をしているのだが、遊び場が遊び場に見えない人たちがいる。こんなにもいろんなものにあふれているのに、何にもないと言う。ちょっとした想像力なのだが、それがいろんなフィルターが邪魔をして見えない人があったり、あまりにも高性能の目を持ちすぎて、説明的な世界に束縛される人があったりする。そんなところをちょっとしたしぐさでシテンをいじる仕事をしている。
何も野原ばかりが遊び場ではない。うちの四畳半にだって遊び場はある。どこだって遊べるし、うちの四畳半は時々後楽園球場になって、長嶋のホームランが欄間に突き刺さったものだ。リアルな映像でしかリアリティを浮かべられないほどに、今どきは想像力を欠いているのだ。Yの字で興奮した昭和の子どもたちの脳内風景を、無修正動画をふんだんに浴びているこの頃の中学生には理解できまい。エロチシズムはその分、随分減衰しているはずだ。
余計な話を書いた。想像力にも支えられたフィールドが必要と言うことだ。
ふたつめは、道具である。
道具の楽しさこそが、遊びの楽しさである。ビー玉もそうだった。パイン缶詰もそうだった。バットだって、サッカーボールだってそうなんだ。もし、釣り竿というものがなければ釣りはずいぶんつまらないだろう。あんなもの持たなくても魚を捕りたいならもっといい方法もある。棒きれ持つだけで、ボクらは食料取得の呪縛から解放されるのだ。
三つ目は、人としたいが、そんなものはなければ始まらないので、人のどんな状態かを示しておく必要がある。心の様子だ。ボクは、切ないという気持ちが遊びには不可欠だと思っている。
秘密基地を作ったことのある人は少なくない。かどうかはわからないが、しばしば、公然の秘密基地をこしらえる。この基地は、大抵の場合、世界征服などを企むための巣窟ではなく、およそ秘密基地を作るという純粋な目的によって制作される。作ってしまうと、もうやることがなくなる。そのうち、どこかに不具合が出てきて補修が始まるが、その楽しいこと、楽しいこと。雨漏りでもすればいよいよすばらしい。休むことなく普請は続けられ、やがて、何となくどうでもよくなっていつの間にかなくなってしまう。そもそも、そこには安定した、何かに保証された時間などないのだ。
いい遊びという言い方も奇妙だが、ボクらを踊らせる遊びの多くはそのやがてくるはずの切ない時間を内包した楽しさを持っている。こんなこといつまでも続かない、この時間があと1分でも続いてくれたらと言う切な願いの裏腹に、切なさが享楽の表皮にカビのように覆う。そうでなければならない。夢の時間は過ぎ、必ず終わるのだ。保存できるような遊びなど、ない。
仕事は蓄積可能だろう。そうでなければ仕事にならない。遊びはそうもいくまいし、そうであってはいけない。今日がこうだったように明日はまた別の今日がやってくる。
フィールド、道具、切なさを遊びの三要素と最近は勝手に決めつけているが、この64ページの写真には完全にその3つがそろっている。
フィールドは黒部川右岸の河川敷公園。何にもないが、すべてが在る場所。柳の木や河原の草地の表情がうまく写り込んでいる。
道具は、フライロッド。手前には川があり、そこでライズを拾っていたが、ちょうどみんながくたびれた頃なのだろう。Nのグラスロッドと、Yのロッドが立てかけてある。テントやキャンプ道具の無造作も絵になっている。懐かしい三角テントも見え、宇奈月小学校の文字がはっきり読める。
そして、切なさは、キャンピングテーブルに座った次男である。右手を動かしているのは、実はナイロンテグスにフライを付けて釣りの真似をしている。まだ小さいのでフライロッドを持たせてもらっていない。サンダル履きだが、椅子に足が届かず、裸足になっている。当時は、フライのことを「お魚のムシムシ」と呼んでいて、彼の手で操られたムシムシにはどんな魚がかかっているのだろう。3日間のキャンプの少々くたびれた3日目の午前である。遊びにひつような切なさが彼の表情に巧みに表れている。
ちゃんと、全部あるんだ。
ボクは写真の愛好家でも何でもないので、この写真もこのカット、これ一枚きりである。2度は切っていない。川から上がった瞬間に今となっては父の遺品のキャノンで写した。そこに全部はまってくる。こういうことが時々ある。撮らされた写真だ。釣れるのは好きじゃないが、何かの力に動かされるようにふるまうことがあるものなのだ。
カラーではあまり感じなかったものがモノクロームで浮かび上がる。こういうことなんだな。
この子も大学生である。一人暮らしを満喫しているはずだが、きっと一人の部屋でふとこれと同じ表情をしているに違いない。親として切なくもあるが、その心象を知らずに大人になるわけにはいくまい。
まだまだ、少しでも多くの人に読んでいただきたい本である。