鳩山、小沢を道連れ

鳩山政権の命運は予想通り、普天間と小沢にあった。
これで、小沢的なものが排除されれば、この鳩山政権の政治的な意義はあったと考えていいのだが、小沢はゾンビみたいな人で、どういうわけかいつの間にか相対的に浮かび上がってくる。選挙に勝てる、というよりは、選挙にうまい、という技だけは民主主義の立場上、どうしてもそのような場所を提供される傾向にある。君主を巧みに渡り歩く参謀役のようなものだ。
しかし、政治とは一種、志だろうと思う。志に賛同し、支持するのであって、戦術的に勝つことに価値をもたせていいのか。10人で引きまくって引き分けで勝ち点を狙うようなもので、それはサッカーではないが、戦術的にはあり得る。そうするかどうかは、志の問題だろう。
マニフェストという形で、志の一端を示せるような時代になってきた。政治のことばにも、多くの人々が敏感に反応するようになってきた。政治家よりも、世論が極端にぶれることがどうにも気味が悪いものの、政治の問題が少なくとも沢尻エリカよりは優先して語られるようになってきた。
いよいよ、志による政権選択の時代の幕を開こうかというときに政権の真ん中に、地方興行師の主が座ってしまった。ドサ回りに強い、失敗も、外れもない優秀な興行師だが、芸術からは随分遠いところで仕事をする、そういう人だ。人も集まる、金も集まるが、得体の知れない期待をかけるにはどこか新鮮みに欠ける。
どうやってこういう人を切ればよいか。それは、私たちがだれを選択するのかという、主権者の方に問題を投げかけたい。自民党は下野することで、古いものが選別されつつある。志を明確に出来ないものは、代議士たる資格をもたないと、私たちが毅然とすべきである。
次期政権は、市民運動家から初の総理というメルクマールを刻むかもしれない。青年将校にやらせてみてもいい。それで、小沢的なものをあぶり出して捨てるつもりなら、国家の大計と言えるだろう。国民の多くが無責任に結果を期待するという意味での衆愚政治では、そのくらいのインパクトでなければとも思える。
鳩山は迷走していたが、小沢は昭和に酩酊していた。元禄はようやく終わる。柳沢吉保は静かに退場しなさい。