サイレントマジョリティ

大塚英志が2001年に書いた文章で、論壇誌がなぜか売れているという話に、サイレントマジョリティの変節を予感している。ことばが再び力をもったと彼らが感じ始めているといった内容だったが、それから10年。ウェブの表現を通じてマジョリティはやけにかまびすしくなってしまった。その分、ことばは希釈され、本当に通用することばがなかなか見つからなくなっている。
あるジャーナリストのツイッターを読んでいると、この人の書き物は悪くないと思っているのに、お茶の間の一角、あるいは、モバイルでどこかのテーブルから発せられるようなつぶやきを、ボクは傍受しながら何を考えようとしているのかと考え込む。いちいち、その言い分に反応してしまう自分もあるわけで、議論などという前に、激しい露出時代の、切り刻まれて縄のれんのようになった雑談以前のことばが受け手側の思考の形にも変化を与えていることが、戸惑いになっているらしい。
一方で、子どもたちが持ってくる作文用紙や文集などは一向にその姿を変えない。彼らの活きる未来はさらにこの先にあるのに、そこには昭和20年代から凡その形を変化させないことばのフィールドがある。
この落差は何だろう。
地元の小学校から送られてきた学校だよりの横倍角文字を見て、今や、どうやったらそんな文字を作れるのかわからないが、パーソナルワープロの様式を今に留めるそのシートに、懐かしくも、拘泥しなくてはならない過去や伝統とはなんだろうと考えた。