椎名道三再考

椎名道三のことについて取材を進めている。
今日は、新湊の博物館で石黒信由について調べて来た。この人は伊能図に匹敵する測量と作図技術をもち、北陸の詳細な地図を描いた人なのだが、椎名道三よりも早く室山野や十二貫野の測量を始めている。
実は、そんなところまで取材したのは、椎名道三が十二貫野用水の工事にわずかな期間しか費やしていないことや、当時では珍しかった工区管理で一括着工に近いことをやっているのだ。そのためには、測量しながらの工事ではおぼつかないため、最初に正確な測量が行われている必要がある。しかし、伝説では、笠や提灯を使って対岸から水平を割り出していたなどという。そんなことはあるか。きっと、かなり進んだ測量術を知っていたのだろうと考えたのだ。
石黒は椎名道三よりも少し前の人で、天文、数学、測量にすぐれ、その技術を積極的に広めようとしている。教科書のようなものまで書いているくらいだ。さらに、実学への思いは強く、測量器具の改良でも優れた知恵を発揮している。
そういう人の影響がない訳はなく、ましてや、椎名道三は石黒の仕事を引き継いでいる。提灯などというのはおかしいと思っていた。
博物館で年代をよく調べながら見ると、その推測がほぼ正しいことがわかる。施工のための技術はともかく測量においては相当に水準が高く、十二貫野用水の緩やかなこう配を出すことは雑作もなかったように思われる。
笠や提灯というのは、十二貫野用水の40年ぐらい前に出来ている黒部川右岸の舟見野新用水の工事のことが伝わっているのかもしれない。さらに調べると、舟見野新用水を指揮した伊東彦四郎は、椎名道三のアイデアと言われている丁場っと呼ばれる工区管理の方法を採用していたというのだ。道三もそれにならったのは、およそ間違いのないことだろう。
よく知られた伏越の理と呼ばれた逆サイフォンを使って谷の向こう側に導水する技術も兼六園の日本最古とも言われる噴水に使われている仕組みだ。
そうなると、あたかも椎名道三の知恵と言われたものの多くがそれ以前に確立した方法を上手に採用したのだとわかってくる。
では、なぜそうしたものが椎名道三の功績として語られているのか。むしろ、興味はそこにつながる。
原稿では、そこらにもう少し光を当ててみたい。
足が不自由でどの絵を見てもつえを付いている。そのことが何かを暗示しているかもしれない。
こうやって調べてみると、いつも何も見てこなかったのだなあと反省する。求めるものに知識は開かれるのだ。