クラムボンはかぷかぷわらう

この春から小学校では新しい教科書になったというけれど、今でも「やまなし」はあるんだろうか。
岩手毎日新聞に掲載された賢治が生前に発表できた数少ない作品のひとつだそうだが、小学校6年生の時に読んでからというもの、ずっとこびりついているもののひとつ。ちょうどそのころ、父といっしょに東京までクルマで移動し、「クラムボン」という名前のドライブインでラーメンを食ったこともあるのだろう。
教科書は、そういうことばの経験を育てるには、重要なものなのだ。「大陸は動く」も、プレートテクトニクスの解説には非常に適切な文章だったし、中学校の時に読んだ「せきをしても一人」という尾崎放哉には、まるで時限式であったかのように数十年を経て、生き方にふりかかっている。
今は、「やまなし」をどう読んでいるのだろうと、ちょっと調べてみた。当時、どうだったか。読んだだけである。何度も何度も読んだだけである。先生が何かを言った記憶はない。文章に向き合い、繰り返し繰り返し読んだだけである。
インターネットで調べてみると、やはりというのか、そんな国語で進んでいるんだなと思わせるものがたっぷりと記述されている。クラムボンの正体探しである。その意味がわからなければ、まるで文章が理解できないとでもいいたげに、ことばがすべてを言い尽くすことが出来るとでも自負しているのか、やけに何々説があふれている。やれ、アメンボだの泡だの、光だの。
もともとの原稿にはクラムポンという記述があるようで、山好きの賢治なら手元にクランポンくらいはあっただろう。いわずと知れたアイゼンのことだ。蟹みたいにみえるのでそういうらしい。英語のクラブににているのでどうこうのと、賢治がエスペラントだったことさえ無視して、英語を世界言語の中心においたかのようなアプローチは危険でさえある。
しかし、そもそも、なぜ蜜柑を蜜柑と呼ぶかについては詮索が無用である。その来歴について想像することは重要だし、蜜柑ということばが描く意味や価値にはことばがもつ本来的な力があるのだけれど、蜜柑とは便宜上蜜柑と言ってみただけで定着した理由も合理的ではないだろう。有名な話では、クックの一団がオーストラリアに上陸してぴょんぴょん飛んで移動する変な動物を見つけてあれは何だと言ったら、アボリジニが「カンガルー」と言ったので、ああカンガルーかってことになった。実は、「よくわかんねえ」くらいの意味らしく、日本語のトランプにも近い。ことばを与えることで、そのものを捉える意味をつかみやすくしているだけだ。
だから、クラムボンの正体を見つけたところで、「やまなし」を味わえるようになるわけではない。幸いなことに、ボクの先生は、多くの解釈を交えず読んでいただけた。ほんとうはどういう話かは、今もってわからないが、時々に、クラムボンがかぷかぷわらう様を見つけては悦に入っている。