悲しみにくれる国民

対岸の国の元首が亡くなり、ニュースが繰り返し流されている。国民は弔意を強制されている、泣き崩れるのは演技だなどの論調も少なくない。その言い方にこそ怪しさがつきまとっていることを、誰もが知っているはずなのだ。
昭和天皇崩御の際、例えば、この国はどうだったろうか。思い出せば簡単なことだ。どんな映像が流されたか。皇居に記帳に行くのが国民の義務とばかりに人があふれた。中には慟哭にくれた人もあるし、中には、ここぞとばかりに天皇制への議論に向かった。一方で、レンタルビデオ店は棚が空っぽになるような状況で、それをこの国の人たちの風景として外国メディアがどう扱ったか。半島の風景に置き換えてみればわかるだろう。
わかっているのに、おおよそ誰もが思い付くようなところに表現を置いて、それで大勢を描いたような感じになっているのが、イライラする。
誰もが見るドラマに多くの人が集中する。どこかでケチがつくとすべての価値が否定される。いつから、こんな単調で、目抜き通りにしか人がいない社会になったのだろう。
光があれば陰がある。陰に光を当てることを、社会の闇をなくすことを豊かとか、発展とか、成長などとうそぶいてきた挙句がこういう想像力を失った単音社会だ。
起こるかもしてないことに疑心暗鬼かもしれないけれど、ヒリヒリしていた時代が案外健全だったのかもしれない。