文豪たちの釣旅

釣りなどという道楽をモチーフに文学をしようということがすでに行きすぎなのに、釣りを描いた文章を追いかけつつ釣りに興じて、そのことをブンガクにしてしまおうというのだから、不遜極まりない。フライの雑誌社ならではの本。出張の長い旅路の友に、まったく、似つかわしい。

読み進むにつれ、列車は日本海を離れ、山懐に入り込み、やがて、分水嶺を貫く隧道を抜ける。鉄道が交錯し始め、いよいよ、江戸にやってきた頃に、池波正太郎の篇に至る。東京駅までの予定が上野で飛び降り、泥鰌とはいかなかったが、江戸の蕎麦をいただく。気分だな、これは。

そば打ちが高じて、専用の道具を使わずに台所やホームセンターで買ってきた道具好い加減にやってしまうそば打ちの体験教室をやっている。だからといって、蕎麦屋になりたいわけではない。職人ではなく、玄人でもない。修練された「素人そば」なのだ。釣りをしているからといって漁師になりたいわけではない。もしかすると、魚をねらっているけれど、魚釣りでさえないかもしれないのだ。著者は、そこらの微妙な立ち位置を「釣人」と表現し、共鳴した。

魚を釣るだけならこうも悩むまい。釣れなくて悩むならいいのだが、釣れても悩む。どだい、どこまでもままならぬ。じゃあ、釣りなんぞやめちまえばいいのにそうはいかない。ままならぬことの解決に執着するのではなく、ままならぬことを楽しんでいるのだから、これは納まろうはずはない。

およそ合理的な行動というものは、目標を定め、そこへの接近法を検討し、達成度を評価しながら課題を解決しつつ、より具体的で効率的な動きをするものだ。何しろ、僕の、おそらくは、著者の釣りも、ああもあろう、こうもあろうと思い切り想像を膨らませ、水辺に立てば、想像とのずれにおたおたし、こんなはずではなかったとおろおろした挙句、思いもよらぬ僥倖に恵まれてさえ喘ぐような喜びの表現しかできず、そのはずなのに、自室で体験を妄想に拡大しては、また、むくむくと湧いてくる情動と戦うのである。(こう書きながら、本でも触れている性欲との類似性がいよいよ顕在化している)釣人とは、終わりなき風景を旅しているヒトビトのことなのかもしれない。

実際、釣り文学などとは勝手な括りで、そんなものはない。小説から濡れ場だけを拾って読むエロ文学のようなもので、釣りの部分、魚の部分だけを拾うからそう見えるようにしているだけだ。とりあえず、そのように見えている釣り文学にも、釣り方など書いてない。書かれているのは、釣人の気分と、その気分を生み出す風景だけだ。ただ、その風景はどうしたものか、竿や魚、水辺を介在すると、静的な表現の中に渦巻く気分がほんの少しの隙間にもびっちりとはまり込んでくる。著者は、隙間にはまり込んだ気分を巧みに引き出し、さらに、釣人の風景として描き直してくれる。

ああ、そうか、これは歌枕ならぬ、「釣枕」の旅なんだな。本の中に、無駄に写真が多くないのも素晴らしい。十分に風景が見える。よい旅をさせていただいた。おかげで、出張中の会議は空蝉になった。

本に訊け!

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