平和的な一体感

恒例になった週末デモの参加者が描くこのことばに、むしろ、閉塞感が増す。
デモは元々示威行動をその本旨とするはずなのだ。その場所に何十万人も不条理に集まることで、理不尽に対して違和感を突きつける。収まりそうもない気配が何かを動かす、そういう機能を持っていたと思う。。
今回のデモ行動は、報道と現状のすれ違いが話題になるほど、デモの空気の捉え方が違う。参加者は、平和的だといい、報道は、威圧だという。どこに向かっていくのか、この行動は。
僕が閉塞感を持っているのは、平和的な一体感と表現されるこのデモを強行し、継続することでしか、国民主権であるこの国の民主的プロセスは動かないのかという点にある。
構造的にどこか、何かがかけ違っているのかもしれない。このデモで官邸や国会が動いても、動かなくても、その閉塞の問題は留保される。
子どもたちのためにと叫ぶとき、僕はそのことも忘れず考えなくてはならないと思っている。