コード

10年ぶりくらいに、ある町を訪ねた。仕事だったのだが、駅前の寂れた姿がなかなか印象的でカメラを持ってこなかったのを悔やんだ。古ぼけたビルや九龍のような地下街など酸っぱい汗の匂いがむんむんとする界隈には、ねっとりした皮膚感覚とともに、人の重厚な生活感が溢れていて、すっかり好きになった、今度、この街を訪ねた時には、しっかりと歩き回ろう。
じきに新幹線の駅ができて、こうした風景も一気にスクラップされて、奇妙に明るい軽薄な街並みができあがる。それもやがて吹く風の冷たさが似合う場所になっていくのだろうが、僕は、泥芥のようにくたくたに溶け込んでいく街の猥雑に気持ちを寄せるだけに、そうなってしまうとどうにも近寄ることもなくなってしまう。
同じように10年ぶりに電車での通勤を始めた。10年の間にいくつかのことが変わっている。立ち止まった人がしきりに指を動かすのは当然としても、何よりも女の子の髪の毛が黒くなったことだ。まっすぐで黒く、肩よりも長い。一様にそんな調子なのはどこかおかしく、不自然さを感じさせるが、かつての茶色の髪にルーズソックスの時代と違って誰も声高にその異様さを唱えない。制服や規制のある持ち物が多いのだから同じように見えるのは当然だろうと言われても、髪型がそんなに整うのはおかしい。明らかに自然のバラツキから離れている。
当たり前だ。そこには、茶髪と同様、作為的な細工がなされているからだ。では、なぜもとあるものの改変が茶髪のように糾弾されないのか。黒いからである。そうとしか思えない。
本来、茶髪の糾弾は、毛を染色することにあった。また、パーマネントも、真っ直ぐなものをカールさせる細工に問題があったとされている。なのに、黒く、真っ直ぐにすることは容認される。
そこには、日本的なコードという思い込みが埋め込まれている。いや、そこまではっきりとしたものでもないか。今、この国の人々が適当と考えるコードに則った姿があるのだろう。だから、かつての糾弾も、正しいかそうでないかの議論ではなく、コードからの逸脱を告発し、糾弾し、断罪していた。
気持ち悪いのはそこだ。
道徳が教科になる可能性がずいぶん高くなった。哲学をもたない政治とは困ったものだ。倫理と道徳の違いをかの為政者はわかっているのだろうか。善悪は教えられるものではない。ゆえに哲学的な命題となるものであり、茶色の髪が間違っていて、黒い髪が容認されるのは色ゆえだとする安易な規範意識に代表されるように、善悪は深い思索と経験に基づいて考えるという行為にこそその中心的な営みを有する。
新幹線がくるからみっともない駅前を整理しようという考えは、人の生き方をみっともないと断じる段階ですでに誤りだと、教科としての道徳ではしっかり考えさせてくれるのだろうか。いずれ、人の残滓を拾いに行こう。案外近かった。