すっかり、ミサイルは影を潜めた

北朝鮮のミサイルはどうなったのだろう。すっかり、ニュースの中心から消えてしまった。そもそも、この国の自作自演の扇動ではないかという疑いさえ持たれかねない。
そういえば、この連休に外遊する国会議員が多く、危機管理上どうしたものかと言われていたが、緊迫した空気が全くなくなっていった。もしかすると、最初からそれほどのことがなかったのか。
いや、うちの海岸線を哨戒目的らしい飛行機が飛んでいた。
どこから何かの脅威がある時、見えざる恐怖が暗鬼を生む。憲法改正議論とリンクしてはいないかと危惧している。
報道がジャーナリズムをまとっていたのはもうきっと前世紀の話で、今やどんなニュースもエンターティメントとして消費され、使い捨てられる。おかげで、地上波を見なくなった。ドラマさえ鬱陶しい。
そういう中で、憲法記念日である。明治節に発布された憲法は、この日、施行され、新しい国の形が定まった。この憲法は、大日本帝国議会によって改正手続きが行われている。それをアメリカが決めたような言い方をする人もあるし、日本人がこれを望んでいなかったような決めつけをする人も少なくない。実際、何らかの形での改正を求める意見は多数派だろう。60年を経て、当時は考えられなかった権利や守るべき規範も増えている。憲法で規定しなければならないことはどれほどあるかとも思えるが、議論は多いにやりたい。
議論には、アンタッチャブルはない。
ところが、政権党は改正手続きのみを先行しようとしている。議論を反らすことで、本当にみんながどう思っていてどうしたいのかを曖昧にしたままなしくずしで何かが決まる。いつか通ってきた道で、その道がのんきに歩けるような場所ではなく、剣呑で急峻で見通しの怪しいものだと気付かずに、中学生の並列自転車のように進んでしまってぬきさしならないところにはまりこんで、「仕方がない」「やむを得ぬ」で乗り切る。あるいは、気合で乗り切る。
集団で議論すると大抵冒険的な結論になるという心理学の知見がある。今の状況によく似ている。大きな声で誰かが叫んでいるときっと何か思惑がある。そういう当たり前に感じてきたことさえ共有できない感覚になりつつあるらしい。
国政選挙が近づくと、また、何かの脅威が露出するのかもしれない。
実は、書きながら、もどかしくてしょうがない。徴兵を口にして選挙で大勝できるという国だということだ。かつての独裁国家も、独裁者を選んだのは国民だった。では、国民とは誰か。問いは収まらないのだ。