小さな生活

朝から春の雨。家のメンテナンスがいくつかあって、ホームセンターまで資材を買い出しに行く。小さいが、歩く範囲で適当に特に選ばなければ何か調達できる町だ。かつて、黒部下の廊下を探検にきた冠松次郎が探検用具の調達に難儀したと書き残している一方で、泉鏡花は「湯女の魂」でそこそこ繁盛な町と書き残している。
カメラを抱えて、ちょっと回り道をする。生まれ育った街並みなのだが、ただ歩くことだけを目的にすることは少ない。回り道など、小学生の専売だろうと思い込んでいるが、春からの仕事のこともあるだろう、寄り道回り道迷い道も自分の素養のひとつであり、何よりも心穏やかに過ごすことが多くの見晴らしを開く。
駅前に向かう通りではっと気づいた。小さい頃からしばしば訪った青果店の2階の窓がいい形をしている。モダン建築のようなのだ。そういえば当時としては目新しいコンクリート住宅。今のようにそれぞれが身勝手に家を作る時代とは違い、通りに似合うように作られていたせいなのだろう、違和感なく、見上げることもなく過ごしてきた。こういうものが、実は、そこかしこに隠れているのではないか。その価値を見失っている自分がいるのではないか。悔悟に似た気持ちが湧き上がってきた。僕ももう若くはない。手付かずで過ごしてきた季節のいかに長かったことか。

大きめの傘をさしながらサンダル履きでゆっくり歩く町は木目が細かく見える。古タイヤ、コンクリート片、そんなものにまで気持ちが向かう。
ショッピングセンターに入り、目的のものを仕入れると、何とはなく商品を見渡して歩く。ひとつひとつが人のくらしの気配につながって形を作っているのだ。年配の女性が、同じような商品を何度も何度も見比べている。思い描くのは、家の中のどこかの区画なのだろうか。走り回る子どもたちはじいちゃんとばあちゃんに何をねだろうか探し回っている。面倒くさい大声を出すものだから癇に障るが、それも休日の風景。いずれたしなめられよう。
精算を済ませ外に出ると、焼き鳥の匂い。もうじき昼になるのか、今日の売れ行きを考えながらいくつかを先に焼いている。野菜苗の区画には、ずいぶんと新しい苗が増えた。春の深まりを感じる。
傘をさして、少し体を小さくすぼめながらいく人もの人が歩道を静かに歩いてくる。さみしい街の風景に小さなくらしをする人々の姿。そう描くのはよそう。その小さなくらしこそ、僕らが大切にしなければならない灯火だ。満ち足りるのではなく、足りていることへの慈しみ、そこが社会の基になるべきだと思う。
今、政治は小さな生活が見えているのか。この小さな生活者こそ主権者の原像と見るのは間違いなのか。ここから積み上げ、形作られる社会を慈しむ意志こそ、政治ではないのか。
僕はいよいよ歩みを小さくしながら回り道を繰り返す。町が作っている共同住宅にどんな声が響くのだろう。笑い声だったらいいし、泣くことも、怒ることもあるだろうけれど、そんな生活の機微を大切にして、いつまでもこうありたいと思う生き方を支えられる街になっていたらいいと、ちょっと涙ぐむのであった。