杉谷の大桂

黒部川の流域が、ごく下流の一部を除いて禁足地であったことはよく知られている。加賀藩は富山藩を分藩しても、黒部川を含む富山県東部新川と呼ばれる土地を手放すつもりはなかったらしく、飛び地としてそのまま所領していた。
禁足地は、黒部奥山廻役を置き、厳しくその管理下に置いた。ひとつは、東日本、つまり、境界を接する越後、信濃への抑えであり、もうひとつは、これが本音だろうが、黒部奥谷が有する鉱物などの資源を確保しておきたいねらいがあったと見るのが一般的だ。
当時のルートはいくつかの文献に詳しいが、なかでも興味深いのは、黒部川の支流黒薙川源流部、つまり、白馬岳の北方の大きな谷の記述である。
黒薙川は、宇奈月温泉の源泉地として知られる黒薙温泉や、黒部峡谷鉄道のポスターなどに使われている後曳橋などで紹介されるが、沢登りの人にはむしろ更に奥地の柳又谷で知られている。この谷は、北又川との合流点あたりから激しいゴルジュ帯が続き、その果ては、別天地とも思える柳河原が開けている。柳河原はその地形的な特徴から後立山の前進基地ともなっており、どの文献にも等しく現れる場所である。しかし、柳河原への川づたいのルートは激しく、ゴルジュを避ける迂回路が確保されていた。
柳河原から北又川に抜けるルートは比較的山が穏やかで、北又川を遡り、小川の源頭部の山を超えると海さえ見えるのだ。そのルートの途上に目印として多くの古文書に書かれたのが、杉谷の大桂である。しかし、現在のような電源開発のルートができてしまうとやがてかつての奥山廻の途上は廃れ、その姿や場所を知る者も少なくなった。
朝日岳、白馬岳の保護管理を進める大蓮華山保勝会や地元・朝日町はこの杉谷の大桂の文化的価値を検証するため、何度となく調査を行っている。文化財として指定するにはさまざまな困難があり、特に、文化財に到る一般道の確保の面で大きな障害があるのだが、ようやく写真を見ることもできるようになってきた。
その1枚がのりさんのサイトに掲載されていた。http://d.hatena.ne.jp/nyama/20050924/1127616883
素晴らしいものだ。最近、根元がけっこう崩れ、木の生育状況が悪いという話を聞く。
富山県立山の方は熱心で、かつて槇有恒らが遭難した松尾峠から立山カルデラ内部に通じる遊歩道さえ設置しようとしているのに、この加賀藩以来の貴重な資産を放置しているように思える。残念でならない。