新学習指導要領

どうやら基本的な売り文句を「言葉の力」にしたらしい。この世紀は、ことばとからだのリアリティの復権だと2001年に高らかに宣言したボクとしては、そんなものだろうと思うが、背景に斎藤孝らの動きがあることは間違いあるまい。これが単純に、読書、読み聞かせ、朗読といった表出していく表現にのみ気を煩わせてはいけない。国語教師が現れてきた肉声や文字にのみ多くの関心を寄せているのに対して、ボク自身はことばの内側にあるエクスプレションの方を重視しなくてはならないと思っている。ことばはそうしたもののメディアにしかすぎないのだ。
そこで重要になるのは、佐藤学などの考え方だろうと思う。
昨日の発表でも使った引用を転記しておこう。

学びとは「モノ」や「こと」や「人」とのかかわりを、学び手の身体を投企して
紡ぎあげる営みと言ってよいだろう。その営みを支えているのが、学び手の<言葉>であり、<身体>である。「モノ」や「こと」と「人」との豊穣な関わりは、学び手の言葉と身体が対象や他者に対して開かれ、瑞々しい生きたものとして働いているかどうかにかかっている。

もうこれでこの実践を支える哲学は十分である。
文部科学省の原案は、こうしたものの基本に体験があることも記述していて、ボクからすれば10年以上に現場のものが感じていたものをようやく形にしたかと思うのだが、その体験が学校週5日制のなかでいささか勘違いされつつ展開していることもよく知っている。
その解決には、体験をリアルとリアリティに分けて考えることと、体験と経験の分別、いや、体験から経験への止揚をしっかりと分析しておくことなのだが、昨日の研修会では言わなかった。ファシリテーターインタープリターということばを初めて聞いたという人ばかりだったからだ。
少なくとも、「学力」が計算や漢字の書き取りではないということをそろそろ多くの人々が気付いている。

学びの身体技法

学びの身体技法