国家の介入

ある人からのメーリングリストへの投稿で、教育基本法改正にからんで家庭教育への介入と書いてあって、へえーと思った。というのは、平成12年に社会教育法に公民館での家庭教育に関する項目が追加されていて、今更、上位法で追認しなくてはならないことの方がどうも残念なくらいなのだが、何よりも「家庭教育」を恐ろしく限定的に扱っているように思えて気になってしまった。
家族のいない人はいても「家庭」のない人はいない。家庭があって、社会があるという単純な井イメージでもいいのだが、人が生きていくときの最低の生活単位が「家庭」である。それを根拠にすれば、たとえ、一人で生活していても「家庭」であることは説明するまでもなかろう。
そのうえで、家庭で生まれる<学び>を、教育行政の立場で捉えると、家庭教育という表現で表している。決して、しつけとか家庭の規範を教えるという狭義ではなく、くらしを成り立たせる生活上の学びをそのように描いているのだ。
家庭教育への国家の介入。さすが、インテリサヨクは言葉遣いが扇情的である。北朝鮮強硬派と修辞的に似ている。激しい表現は時として胡散臭さを伴って、直線的な愛の台詞のように恥ずかしくて口にも出せなかったが、こうやって何でも沸騰するような空気にあっては、むしろ、そのくらいのエネルギーでもないと気付いてもらえないのか。
だけど、ひとつひとつのことばをちゃんと教育の文脈のなかで理解しておいてもらわないと。そうしたところを飛び越えて議論すると、何でも理屈が激しく真っ直ぐな方が勝ってしまう。
廊下を走るな!くらいにストレートな張り紙も注意も知らないもんね。何で、走っちゃダメかよりも、その端的で勢いのあるメッセージに屈する感じね。