感想文の原稿

この頃はたいてい字数が示されているのだが、原稿用紙もついてきた。業界OBへの配慮だろうか。原稿自体はキーボードを叩く癖が付いていて、ほぼそれで書き上げるのだが、たまに万年筆で原稿用紙に書いてみようか。
かつて、ある論文で筆記具と思考の形式について書いたことがある。エクリチュールだの、ディスクールだの、そういうことばがあふれていた時代だ。パソコンというのか、ディスプレイとキーボード、それに当時のFEPという筆記具を前にボクらのことばと思考はどのように変容するのかを書いた。画像や音声というシンボルを同質に、同次元で取り扱えることがいわばマルチメディアで、そのプラットフォームとしての性能と、文字を紡ぎ、ことばを生む思考の機械として、パソコンたらいうものは一体どんな未来と脳の新しい領域を拡張するのか、なんてことについていろいろ考えてみたわけだ。
業界の研究会で発表の機会を得たのだが、そのときの反応はおもしろかった。パソコンの使い方ならいざ知らず、わけのわからん哲学的な話では何の役にも立たない。そんな感想を大波のようにかぶった。「哲学的」ではなく、「哲学」なんですがと返したかったんだけど、まあ、いいやで十数年。職場の机上には当たり前のようにパソコンがあり、みんなそれで仕事をしている。時代の移ろいは、無批判にこの道具を使い続けることへの懸念を彷彿する。
それで、どうしようかなあなんて考えているけれど、やっぱり、万年筆にしようかなと、藤沢周平と同じ、パーカーの細身、ブルーブラックで。