黒部川物語

友人が送ってきてくれた。
なるほど、こういう本だったなあ。
自分のところだけ、引用する。

川のほとりで

「川を歩いたことがあるかね」
「そりゃ、あるさ」
「まさか、河原ではあるまいね」
「いや、河原だよ。川は土地や文化も含んだものだろう」
「じゃあ、川にふれたことがあるかね。水が作る土地や文化、その根幹である水にふれたかを聞いているのさ」
「・・・・ない。だが、ボクらは命とくらしの営みのなかで水にふれている」
黒部川を流れる水の香りや、水をわたる風にふれたことはないのだね」
「いや、だから黒部川というのは流れている川のことだけじゃなくて、人々のいろんなものを統合した営みをまるごと言い表した概念だから・・・」
「でも、水だろう。結局、君は形而上だけで受け止めていて、黒部川の水さえ知らない。見たまえ。子どもたちは正直さ。水に足をひたして、光や空気をいっぱいに感じているじゃないか。あそこが”川”さ。いろんな権威をまとった黒部川じゃなく、そこにある水の命さ。悔しかったら飛び込んでみるがいいさ」

id:bakken2くんは、黒部川を「川」としか呼ばない(かった。今はどうだかわからない)。彼には、日本で何とかの黒部川であるとかないとかはまったく無関係だ。川に向き合う最も大切な仕種だと教わった。目の前を流れるその絶え間ない水が生み出す世界が川である。一方、ボクらには形而上の川も必要である。その場にいなくても、川は感じられる。感じられることで川は存在しているとも言える。どっちがすごいのかはわからないが、正しいことやそうでないことと分けるわけにもいかない。ただ、水を「川」と呼んで偉そうに教えた気になっている先生なんかにはこの問いかけがどこまで有効かを時々考えては自分自身のバランスを測っている。