ルール

職場にやってきた業者と少し話し込んだ。仕事に関するレファレンスをいくつか買った。少々高かったが、どうしても必要感がある。仕事上の細かな法律上の約束事をあまり承知していない。コンプライアンスも何も、知らなければどうにもならない。
本を買って、しばらく話したが、そんなつもりなどなかったのにうまく言えてしまうことがある。
最近の子どもがゲーム漬けだとかいうんだが、ボクはゲーム脳などどうでもいいし、そんなことをぶちぶち言っている人は基本的に知的レベルがあやしいと思っている。
子どもとのかかわりでは、どうしても、新しいものや世代間でギャップの大きな機器はバッシングに晒される。ゲーム機、携帯電話、パソコン、マンガ、アニメ、テレビ、ドリフ、クレージー、ロック、映画だって、口語で書かれた文学だってそうした波に揺られながら今の姿を呈している。だから、ゲーム機そのものは必要悪ですらなく、社会生活の風俗の変化くらいにしか思えない。決して、文化の質的変化なんかではない。ゲームの得意技は世の中の仕組みのシミュレーションであって、そこから独自の文化的な様式を提案しているわけではないからだ。その熱狂の具合を考えると、ヨンさまだって、王子さまたちだって、ブランド品の数々、宝石と呼ばれるよく磨いた石っころだって熱狂の根拠は曖昧で、非論理的で、非合理である。
もうひとつおかしいのは、ゲーム機というメディアとゲームというコンテンツが同質で批判されているのもおかしいのだが、今回はそれを通り過ぎるとしておこう。
では、問題は何か。ことは遊びの本質にかかわる。
小さい頃を思い出してみるといい。また、そのときのことを誰かと話してみるといい。だるまさんがころんだ、花いちもんめ、影踏み、鬼遊び、釘指し、地面取り、陣地取り、そして、あのカンケリにいたるまでルールの違いに驚く。地方ごとにルールがあるばかりでなく、その都度ルールは改変される。
例えば、カンケリ。仲間のなかに、弟の面倒をみなくちゃいけない奴がいて、3歳くらいのわけがわかんないのを連れてきたとしよう。こういうとき、彼がどう対応できるかと考えるよりも、彼が対応できるやり方を導入する方が手っ取り早い。ボクらは、ミッキやトウメイなどといった特別ルールを彼に適用し、何となくいっしょにいるような風を装った。ルールは基本的な様式を変えなければ、いかようにも変更可能なのである。そこに解釈憲法の姿を見るのは皮肉だが、こうしたネゴシエーションが子どもの遊びの基軸にあった。
一方、ゲーム機ではどうにもそこがもどかしい。ゲームに仕込まれたルールというプロトコルを読み砕き、解決していくようなやり方で隠されたものを暴いていく感じなのだ。そこに一番の問題があるように思えてならない。
子どもに人気がある「探偵コナン」はその典型だ。物語は殺人から始まる。その殺人に秘められたディスクールを解いていくことで物語は成立する。殺人や犯罪がなければ物語はそもそも成立しない。そんなものはブンガクにならない。運動会と遠足しかない学校のようなものだ。しかし、多くの人の指示を得ている。その物語の狂言回しを演じることで、コナンは探偵と呼ばれるのだ。決して、何ものも生み出さない。
子どもたちからネゴシエーションの機会を奪ったのは誰なのだろう。ネゴシエーションなど経過しなくても手に入れ、与えられる現実の価値に食傷した子どもたちの避難先がゲームである。ゲームを手にしたときに、社会状況そのものが「ゲーム脳」なのである。単純で刺激的な手続きで興奮し、沸き立ち、やがて、飽きて、捨てる。
まあ、そんなことを業者に話して、自分でなるほどと思っていたのだ。