褻の蕎麦

今朝の朝日新聞(12版▲)朝刊に「環境ルネサンス」と題した特集が組まれていた。ひとつは、伝統農法として焼き畑農業を取り扱ったものだ。斜面を焼き、連作障害を巧みに回避する周作を施す農法も、今や、まるで環境悪化の権化のような言われ方さえあって細々と、しかし、脈々とも続けられている。
昨年気が付いて、今年もその傾向が強いのだが、付近の里山が紅葉している。もう紅葉したわけではない。何かの木が枯れ、茶色く変色しているのだ。最初は、松の病気かとも思ったのだが、よくよく見るとそうではなく、どうやらナラのようだ。それも、比較的大きなものが見事に葉を変じている。新しい伝染病でもあるのかと疑ったが、どうやらただの水不足虫の影響らしいのだ。
かつて、ある時期から里山と呼ばれた森林と里の境界領域は、原生林とは異なり人の手が入ることでその適正な更新がなされていた。炭となり薪となり、資材となり、燃料となりながら、同時に山の幸の増殖地ともなっていた。その資質が「里山」の名前と共に見直され価値を高めたのはいいのだが、文化としての里山が失われた。里山を生かした生活の方が失われてしまったために、里山は豊穣なものを抱えたまま遺物化してしまった。人と自然のダイナミズムにこそその価値があったのに、そこが停滞する。人々はさらに勘違いを始める。あたかも、里山を原生林かのように思い、何もせず、ふれず、その価値を称揚し続ければいいのだと考えた。似非環境主義者の横行である。そのため、更新されなくなった里山は呼吸を止めてしまった。ナラ枯れと呼ばれる現象は、ナラの老木に起きているらしい。今までは何ともなかった部分、しかも、長い時間に堪えてきたものから崩れていく。里山が自ら森の再生に向かい始めた兆候とも捉えられるのかもしれない。いずれ、ボクらの時間では計りきれない。
さて、そんなことを考えていたところに、記事である。藤沢カブという藤沢周平の出身地につながるカブの話があり、その下に柳田圀男に連なる野本さんという方のコラムがあった。蕎麦が文化的にどんな位置にあったのかをわかりやすく示したもので、それによれば、蕎麦は、例えばソバキリは「晴れの日の食であり食法」であり、同時に蕎麦にはそのほかに「褻の食物としての多彩な食法や豊かな民俗」をもっていたという。その点は実に得心のいくところだ。
かつて、そばで村おこしをしている土地のある蕎麦屋さんのことをウェブで書いたらおしかりを受けた。そこのそばは一級品である。とてもよいそばである。東京で店を構えても、それなりにのれんを守り、押し出すことも可能だろう。店主の努力も並々ではない。多彩なメニューで、そばの味わいを幾重にも示してくれている。しかし、それはその土地の民俗に根ざした食ではない。ボクはそばの民俗展示さえ隣接しているその土地で食べたいのは、その土地の褻の食物としてのそばであると書き、店のなかで流れるモーツアルト更科そばも必要ないと書いた。真意が伝わらない筆力にも問題があるのだが、抗議をいただき、書き直した。難しいところだし、客は勝手である。しかし、そばで村おこしというのならどこかでその土地のそばを食べさせて欲しいと願う。年を追うごとにその土地のそばがどんどん高級で、まるで都会の名店で食べるようなものに変じていくことを、そばの食味が増すことと反比例して、少々悲しく思うのだ。
その点、美麻村新行の「美郷」はすごい。そこのおばあちゃん*1がやっていたように今もそのそばを出している。うまいか、まずいかと言われれば、そううまくはない。当たり前だ。このそばのうまさは日常食、褻の食物としてのうまさであって、毎日毎日のご飯に感激するものがいないように、当たり前の食である。*2懐かしいわけはない。そんなものなどボクの体験にはない。ゆえに、感傷ではない。ただ、その土地のものを土地の風と光と空気を浴びながらその土地の人々のやり方で味わうことが、ボクにはたまらずいとおしく思えるのだ。
野本さんのコラムには、ソバガキ、ソバ団子、ソバゴメ*3、ワクドー汁*4、ケーモチ*5などが出てくる。いずれも食の背景が浮かび上がる興味深い食である。
野本さんは、コラムのなかに残間里江子さんの「それでいいのか蕎麦打ち男」を引き合いに出し、その中身にはふれていない。「蕎麦打ち男」の哀愁は、バブル時代に狂乱する資金に踊った団塊の世代を見るようで、根無し草とドーピング植物園、虫1匹いないディズニーランドを彷彿とする。

それでいいのか 蕎麦打ち男

それでいいのか 蕎麦打ち男

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同じ朝日新聞酒米作りの話も出ていた。ご近所の根知谷でも栽培が行われているらしい。ちょっと見に行ってみるか。雨飾山の姿でも見て、おだじまか、琴ざわでそばでもいただいてくるか。

*1:お達者でいらっしゃるだろうか。すでに10年にもなる。おばあちゃんのお話がボクのそばに流れている。ボクはまるでボクの曾祖母から話を聞いたような気がしたものだ

*2:だがしかし、その土地では晴れの食であったとおばあちゃんは語った。つなぎに小麦粉をつかっているのをいぶかしく思ったボクは、おばあちゃんに聞いてみた。すると、麻を大町に売りに行って、そのもうけで小麦粉を買ってくる。小麦粉があるときだけ、お父ちゃんがおそばを打ってくれた。そう話してくれた。無骨な味だったのだろう。その味をボクはたまらなく味わいたいと思った

*3:ソバ粥である。米のように粥にする。うまいものではない。山菜や漬け物を入れて味わった

*4:ソバ団子を猪肉で煮たもの

*5:残飯と蕎麦粉をヘラで錬り、汁にちぎり込んだもの