フードファシズムか

おもしろい話を聞いた。
ある人が学校の家庭科の学習で子どもたちの家のみそ汁がどうなっているのか調べるとちゃんと出汁を取っている家庭が少なく、ほんだしみたいなのを使っているのが普通なんだそうだ。それはそうだろうと思う。本格的な「化学出汁」は随分実力を上げているし、なかなかちゃんとした出汁など取ることは時間的にもコストとしてもかなり面倒である。
こういう状況に家庭科の先生は少々お冠のようである。ちゃんと出汁を取りなさいってなところらしい。
子どもたち、それも高校生年代の子どもたちを集めた野外活動をすると、昭和62年度の生まれの子どもたちからがそれ以前と大きく異なる。何が違うかというと、調理や食卓づくりが全く当たり前なのである。ボクらの頃は、そういうのが得意な男子は重宝がられた。珍しいというよりも男は料理などしないものだという巷間の常識が崩れつつあったがまだまだスーパーで夫婦で買い物をする時代ですらなく、野外活動などになると「男の料理」らしいものが現れて、それが場に合っていて好評だったりしたのだ。今では、人気男性グループが毎週食事を作る番組さえあるくらいで、それなりの男ともなるとちゃんと料理くらい作れないとという感じさえある。日常食ではない、何か、一つ気の利いたものであろうか。しかし、そうでなくて、全く日常の風景として当たり前で台所仕事や掃除、洗濯をするのだ。この世代から、家庭科が男女共修になった影響は少なくない。
その家庭科だが、炊事や洗濯、掃除といった家事を賄う学習ではない。家族関係や社会のありようなど、いわば、家族や家庭にかかる人間関係やその営みにまつろうマネジメントを扱う学際的な性格をもっており、お裁縫のイメージはすでに教室にないらしい。とすれば、ほんだしは至極当たり前の家庭の風景であり、ほんだしが何に由来しているのか、その利点、問題点は何なのかを問いつめてこそ家庭科であろうと思うのだが、教科書の例示のように作れとでもいうのだろうか。出汁ほど土地の空気や風景を写すものはない。それゆえ、それぞれの家庭の営みに応じた工夫や知恵が生きるはずである。
フードファディズムといって、例えば、添加物がいけませんとなると雪崩をうったように添加物が排除されたり、焼き肉をがっつく女子が大量発生することの根拠にことばを与えているそうだが、日本国内では「ちゃんと」煮干しで出汁を取らなくてはならない。それが基本です。などとやられると、自分を否定された気分にさえなる。
そういうのはフードファディストと呼んでやろう。
家庭科の先生は、きっと、コンビニ弁当もお惣菜もスナック菓子も、パーキングエリアの焼きそばも嫌いなんだろうなあ。正しい食を伝導するのが食育基本法のあり方なら、どうも勘弁願いたい。そばの多様性に、もう少し学んで欲しい。スローなだけで、土地の香りのないものに席巻されスタンダードを失う仕事を、これまでもいっぱいいっぱいやってきたのに、全く凝りないのだな。
今日は、お昼にモスでチキンカツバーガーをいただいた。チキン好き、カレー好き、そんでもってカツ大好きなので、こんな旨そうなもの放っておけるかと250円を投資。比較的安い。それにモスのエスプレッソを付ける。モスはレギュラーがエスプレッソででている。豆の良し悪しの格差を解消しやすいそうで、いい選択だ。だが、残念なことなことに、2割6分5厘、ホームラン12本、打点53の中堅7番打者のようであった。あるいは、防御率3.65、95イニングのロングリリーフもできる中継ぎ投手のようでもあった。家庭科の先生にはこの表現わかるまい。